愛こそがチカラ!極道から僧侶へ・密教僧侶ヒーラー正仙 -4ページ目

自分探しの旅・自分という陽炎

 

 
 
「自分探しの旅」に酔う人は多い。自分=私。
 
私なども投稿では表記の上で「私」を用いたりしておりますが、仏教の視点・視座で言うならば、私とは肉体、感覚、想念、意志、意識といった五つの要素(五蘊)が一時的に組み合わさった状態にすぎません。
 
何らかの精巧に見える機械、あるいは自動車の各パーツを分解・解体すると「車」という実体がなくなるように、人間という生きものも要素に分解すれば、どこにも固定され恒久不変な「私」を見つけることは出来ません。
「ちょっと縁起でもないこと言わないで」とか、
「縁起悪いったらありゃしない」など、
私達の日常において聞き慣れた言葉ではありますが、それはどちらかと言えばゲン担ぎの良し悪しに使われることが多く、私なども極道当時は、縁起が悪いことを指して「ギザが悪いや」などと隠語を使って表現していたものです(笑)
 
仏教における縁起(えんぎ)とは、神社のおみくじの吉凶に一喜一憂するようなそれではなく(笑)、すべての現象が相互に依存して成立しているという根本原理であり、すべてのものは単独で存在するのではなく、無数の「因(原因)」と「縁(間接的な条件)」が結びついて生じ、それらが離れれば滅するという法則です。
 
これは釈迦が悟った内容そのものとされ、「縁起を見る者は法(真理)を見、法を見る者は縁起を見る」と言われるほど、仏教の核心的な位置を占めています。般若心経でも知られる大乗仏教で発展した「空(実体がないこと)」の思想も、この縁起に基づいているもので、固定不変の実体がないからこそ、あらゆるものは変化し、互いに関わり合えると考えます。
 
でも、多くの人が、自分は個として確立されていて、特別だとさえ思ってしまう──
 
ここに苦しみが生まれます。
 
「自分という執着すべき対象がある」と、自我(エゴ)に思い込まされることで、あらゆる苦しみ(四苦八苦)が生じるのも私達人間なのです。私のように元極道、元ヤクザの人間も、これは大きく試されるところで、
「ヤクザはやめたが男をやめたつもりはない」
「堅気にはなったが、警察には頼らない」
「看板は下ろしたが、自分の器量で喧嘩もし、納得いかなければいつでも身体を賭け、懲役も覚悟する」などの、素っ堅気にはなりきれぬその世界特有の信念体系、矜持というものが捨てきれず、これが堅気で生きていく上で大きな足枷となる場合が多々あるものです。
 
私なども今の道を志した時など、このヤクザ教とも言える世界で培った信念や慣性に苛まれ、何度鏡の自分に向かって、「何が坊主だ、何がヒーリングだ、中身は相も変わらずのゴロツキじゃねえか」と罵ったか分かりません(笑)
こうしたケースにおいては、本人が「俺は堅気だ!」と力説しようとも、周りからは相変わらず変わっていないなと映ることもまた多いものです。
 
でも、何もこれは「元」の付く人間ばかりでなく、あまねく苦しみの種として、それぞれのバージョンで日々、私達人間が体験していることでもあるようです。
SNS花盛りの現在、アプリを使えば顔のシワを消し、目尻のシワを消し、腰のくびれを作り、足を長くしたり、様々に盛ることも出来ます。「楽しめばいいじゃん、そんなこと」という意見もあると思いますが、こうしたことも行き過ぎれば、自分の中でどこで線引きしてよいのか分からなくなるのも人間です。
 
また、こうしたことに隠れた罪悪感を持っている場合など、盛った写真や動画に心ないコメントや誹謗中傷を受けたりするのも、因果法則から生じる「投影」と言えるでしょう。虚像に命を吹き込み、一人歩きさせる対価というものは、SNSの世界でとかく散見されることでもあります。
 
冒頭の「自分探しの旅」という時、多くの人にとって知らず知らずのうちに、
「力に溢れていた自分」
「美しかった自分」
「人間関係に恵まれていた自分」
「疲れ知らずで健康だった自分」など、今自分が失ったものを懐古するように、ふたたびそれを取り戻したい欲求が隠れていたりするものです。
 
ただでさえ前述のように私などというものはあてどなきものなのに、ますます葛藤の種を増やしてしまうことにもなりかねません。
 
五十代で容姿端麗な女性であっても、バレエのプリマドンナを目指すことは不可能と言わざるを得ません。還暦のオッサンが、少々若い頃喧嘩が強かったからと、健康増進のためにジムや道場に通うのは別としても、プロの格闘技選手として若い人間と相対することは非現実的とも言えます。
 
仏教では「私」を変化し続ける流れとして捉え、執着を手放すことが心の平和や悟りの第一歩とされています。それは今置かれた自らの分を知ることでもあり、何も卑屈に卑小に自分を頭打ちすることではありません。
 
昭和の頃など、学校の文化祭で「風」という歌がコーラスで歌われるなどして記憶にある方も多いのではないかと思いますが、その一節、「そこにはただ風が吹いているだけ」これは私が極道当時から今に至るまで、あまりにも見過ぎてきた因果法則でもあります。
 
思わしくない状況や人間関係も、病も、好転せぬ経済状況なども、憎めばますます実体化し苦しみが増します。細胞レベルでも昨日の身体ではない自分。お釈迦様もはっきりとこの世界を指して「苦の娑婆(苦しみの世界)」と説き、「身体は壊れゆくもの」「人生はかくも短きもの」と看破しておられます。
 
身体や心のあり様、人間関係にも絶え間なく縁起が生じています。馬鹿のようになし崩しに受け身になれということではありませんが、陽炎のような過去の自分に執着しても、結局、不承不承であろうと何であろうと、人間は変化を受け入れざるを得ません。そうと分かったなら、あらゆる変化──好ましいこともそうでないことも──「そうか」と、とりあえず落ち着いて受け入れる習慣、心の訓練というものが、家族や社会の中での立ち位置や為すべきことを示唆し、身体の不調や病にあっても心の平和を失わぬことにつながるのではないでしょうか。
 
そしてそこに、たとえ尊大でなくとも、地味ではあっても、自分の役割、天分、天命というべきものが見えてくるのではないでしょうか。
 
 

合掌

        

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。


ブッダの言葉・ダンマパダより【汚れ】

 

 
 
私が極道の世界に身を置いていた頃、北九州の人間などとも多少の交流がありました。

その中に、自らを指して
「自分などは中途半端な外道で、汚れ(よごれ)に過ぎませんから」
と、どこか自嘲するように語る者がいたものです。

「この汚れめ」という言い回しは、関東ではあまり耳にしませんでしたが、関東で言うなら「この半端者め」に近いのかもしれません。
けれども「汚れ」という言葉には、それ以上に、どこか陰鬱で、逃れがたいニュアンスが宿っていたように思います。

その男は、看板を持つ正式なヤクザではないものの、いわゆるポン中(覚醒剤常習)で、複数の女性のヒモをしていた様な男で、風俗へ女性を沈め、カスリを取るなどして糊口をしのぎ、おそらくは女性にも注射を打ち、アメとムチの如く縛っていたであろうことは想像に難くありません。
そこには、自らの生き方への後ろめたさ、出口なき蟻地獄のような日々への侮蔑――そうしたものが「汚れ」というこの男の一語に凝縮されていたように、今になって思い返します。

下記の釈迦の言葉は、令和の今を生きる私たちにとって、あまりにも厳しく響くかもしれません。
しかし、ヘイトや断罪が容易に拡散するこの時代にあって、人間が見失いがちなものを、二千五百年以上前にすでに見抜いていた教えでもあるように思います。

【汚れ】

あなたはいまや枯葉のようなものである。
閻魔王の獄卒があなたを待ち構えている。
死出の門出に立ちながら
旅路の資糧(かて)もない。

それゆえに、自分を依りどころとせよ。
励みつとめ、賢明であれ。
汚れ(けがれ)を除き、罪と過ちがなければ
天の尊い処に至るであろう。

あなたの生涯は終わりに近づいた。
あなたは、閻魔王のもとにおもむく。
あなたには、旅路で休む宿もなく資糧もない。

それゆえに、自分を拠りどころとせよ。
励みつとめ、賢明であれ。
汚れを除き、罪と過ちがなければ、
あなたはふたたび(輪廻することなく)
誕生と老いにおもむくことはない。

賢者は順次、少しずつ
刹那刹那に
自分の汚れを除きなさい。
鍛冶屋が銀の不純物を除くように。

鉄から産まれ出た錆が
鉄を蝕むように
自分がなした悪い行いは
自分を悪いところ(地獄)に導く

聖典は、読誦しなければ朽ち
家屋は、修理しなければ朽ち
容色は、手入れしなければ朽ち
修行は、励みつとめなければ完成しない。

不品行は、婦女の汚れであり
吝嗇は、布施する人の汚れである。
悪い行いは
この世でも、あの世でも汚れである。

どんな汚れにもまして悪い汚れ
迷妄こそは最大の汚れである。
出家修行者よ、この汚れを捨て
汚れなき人となれ

恥を知らず
烏(からす)のように厚かましく
図々しく、高慢に
心汚れて生きるのは易しい。

恥を知り
つねに純粋に
執着することなく、慎み深く
真理を見つめて、清く生きるのは難しい。

生きものを殺し
偽りを言い
与えられていないものを奪い
他人の妻と交わり

酒に溺れる人
かれはこの世において
自らの行いにより
自らの礎を掘りくずす。

人よ、知れ!
「慎みがないのは悪いことである」と。
貪りと不正ゆえに
永いあいだ苦しまないために。

施しは、信心に従い
浄らかな心に従って、なされる。
施された食べ物や飲み物に
不平を言う人は
昼も夜も
心安らかにはなれない。

これ(不平の思い)をなくし
その根を絶ったなら
かれは昼も夜も
心安らかである。

貪りにまさって焼きつくす火はなく
怒りにまさって不運を招くものはなく
迷妄にまさって人を欺き捕らえる網はなく
激しい愛着にまさって恐ろしい河はない。

他人の過失は、気がつきやすく
自分の過失は、気がつきにくい

他人の過失は、仔細もらさず暴くけど
自分の過失は、隠してしまう。
狡猾な賭博師が
不利なサイコロの目を隠すように

他人のあらを探し
つねに批難しようとする人は
心の汚れが増大し
心の汚れを消すことができない。

自由自在な
ブッダの教えを守る人以外には、真の努める人はいない。
世間の人たちは汚れの中に喜びを見出すが
修行を完成した人は汚れを喜ばない。

自由自在な
ブッダの教えを守る人以外には、真の努める人はいない。
世のもろもろのことは永遠ではないが
目覚めた人は、動揺することがない。

 

 

合掌

        

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。


☆遠隔加持【お客様の声】傷病平癒としての加持・ヒーリング

 

 

※病名やご状態などにつきましては、ご本人様・ご家族様のご了承を得て掲載しております。

 

転倒により頭部を強打され、大きな裂傷を負い、外傷性くも膜下出血ならびに右大腿部骨折にて救急搬送されたご高齢の女性。


先月、その娘様を願主としてご依頼を受け、遠隔加持を開白させていただきました。

本件は、手術を控えての術前の安穏、術中の守護、そして術後の経過が良好となりますよう、回復へ向け継続して加持・ヒーリングを修しているものです。

このたび、お母様のご回復に向けたご様子を願主様よりお知らせいただくとともに、

 

 

 

 

色々なお味の南高梅の詰め合わせや、照り焼き・味噌焼きなど北海道産の鮭のチルドをご恵贈いただき、温かなお心遣いに感謝申し上げます。

 

以下、ご本人様のご了承を得て掲載いたします。

 

ーーーーーーーー

 

手術から1ヶ月、
痛みも軽減しはじめ、
せん妄等も落ち着き、
寝たきりの完全おむつの状態から、手伝ってもらいながら
車椅子に乗るなど、
スローペースでの
リハビリが始まっています。

 

当初はどうなることかと思いましたが💦

 

理学療法士さんとのリハビリ中にも、笑顔で受けこたえする場面もあり、
山は越せたと安堵しています。

 

ありがとうございます。

 

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合掌

        

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