無常・諸行無常・因果応報・執着・仏教・お釈迦様 | 愛こそがチカラ!極道から僧侶へ・密教僧侶ヒーラー正仙

自分探しの旅・自分という陽炎

 

 
 
「自分探しの旅」に酔う人は多い。自分=私。
 
私なども投稿では表記の上で「私」を用いたりしておりますが、仏教の視点・視座で言うならば、私とは肉体、感覚、想念、意志、意識といった五つの要素(五蘊)が一時的に組み合わさった状態にすぎません。
 
何らかの精巧に見える機械、あるいは自動車の各パーツを分解・解体すると「車」という実体がなくなるように、人間という生きものも要素に分解すれば、どこにも固定され恒久不変な「私」を見つけることは出来ません。
「ちょっと縁起でもないこと言わないで」とか、
「縁起悪いったらありゃしない」など、
私達の日常において聞き慣れた言葉ではありますが、それはどちらかと言えばゲン担ぎの良し悪しに使われることが多く、私なども極道当時は、縁起が悪いことを指して「ギザが悪いや」などと隠語を使って表現していたものです(笑)
 
仏教における縁起(えんぎ)とは、神社のおみくじの吉凶に一喜一憂するようなそれではなく(笑)、すべての現象が相互に依存して成立しているという根本原理であり、すべてのものは単独で存在するのではなく、無数の「因(原因)」と「縁(間接的な条件)」が結びついて生じ、それらが離れれば滅するという法則です。
 
これは釈迦が悟った内容そのものとされ、「縁起を見る者は法(真理)を見、法を見る者は縁起を見る」と言われるほど、仏教の核心的な位置を占めています。般若心経でも知られる大乗仏教で発展した「空(実体がないこと)」の思想も、この縁起に基づいているもので、固定不変の実体がないからこそ、あらゆるものは変化し、互いに関わり合えると考えます。
 
でも、多くの人が、自分は個として確立されていて、特別だとさえ思ってしまう──
 
ここに苦しみが生まれます。
 
「自分という執着すべき対象がある」と、自我(エゴ)に思い込まされることで、あらゆる苦しみ(四苦八苦)が生じるのも私達人間なのです。私のように元極道、元ヤクザの人間も、これは大きく試されるところで、
「ヤクザはやめたが男をやめたつもりはない」
「堅気にはなったが、警察には頼らない」
「看板は下ろしたが、自分の器量で喧嘩もし、納得いかなければいつでも身体を賭け、懲役も覚悟する」などの、素っ堅気にはなりきれぬその世界特有の信念体系、矜持というものが捨てきれず、これが堅気で生きていく上で大きな足枷となる場合が多々あるものです。
 
私なども今の道を志した時など、このヤクザ教とも言える世界で培った信念や慣性に苛まれ、何度鏡の自分に向かって、「何が坊主だ、何がヒーリングだ、中身は相も変わらずのゴロツキじゃねえか」と罵ったか分かりません(笑)
こうしたケースにおいては、本人が「俺は堅気だ!」と力説しようとも、周りからは相変わらず変わっていないなと映ることもまた多いものです。
 
でも、何もこれは「元」の付く人間ばかりでなく、あまねく苦しみの種として、それぞれのバージョンで日々、私達人間が体験していることでもあるようです。
SNS花盛りの現在、アプリを使えば顔のシワを消し、目尻のシワを消し、腰のくびれを作り、足を長くしたり、様々に盛ることも出来ます。「楽しめばいいじゃん、そんなこと」という意見もあると思いますが、こうしたことも行き過ぎれば、自分の中でどこで線引きしてよいのか分からなくなるのも人間です。
 
また、こうしたことに隠れた罪悪感を持っている場合など、盛った写真や動画に心ないコメントや誹謗中傷を受けたりするのも、因果法則から生じる「投影」と言えるでしょう。虚像に命を吹き込み、一人歩きさせる対価というものは、SNSの世界でとかく散見されることでもあります。
 
冒頭の「自分探しの旅」という時、多くの人にとって知らず知らずのうちに、
「力に溢れていた自分」
「美しかった自分」
「人間関係に恵まれていた自分」
「疲れ知らずで健康だった自分」など、今自分が失ったものを懐古するように、ふたたびそれを取り戻したい欲求が隠れていたりするものです。
 
ただでさえ前述のように私などというものはあてどなきものなのに、ますます葛藤の種を増やしてしまうことにもなりかねません。
 
五十代で容姿端麗な女性であっても、バレエのプリマドンナを目指すことは不可能と言わざるを得ません。還暦のオッサンが、少々若い頃喧嘩が強かったからと、健康増進のためにジムや道場に通うのは別としても、プロの格闘技選手として若い人間と相対することは非現実的とも言えます。
 
仏教では「私」を変化し続ける流れとして捉え、執着を手放すことが心の平和や悟りの第一歩とされています。それは今置かれた自らの分を知ることでもあり、何も卑屈に卑小に自分を頭打ちすることではありません。
 
昭和の頃など、学校の文化祭で「風」という歌がコーラスで歌われるなどして記憶にある方も多いのではないかと思いますが、その一節、「そこにはただ風が吹いているだけ」これは私が極道当時から今に至るまで、あまりにも見過ぎてきた因果法則でもあります。
 
思わしくない状況や人間関係も、病も、好転せぬ経済状況なども、憎めばますます実体化し苦しみが増します。細胞レベルでも昨日の身体ではない自分。お釈迦様もはっきりとこの世界を指して「苦の娑婆(苦しみの世界)」と説き、「身体は壊れゆくもの」「人生はかくも短きもの」と看破しておられます。
 
身体や心のあり様、人間関係にも絶え間なく縁起が生じています。馬鹿のようになし崩しに受け身になれということではありませんが、陽炎のような過去の自分に執着しても、結局、不承不承であろうと何であろうと、人間は変化を受け入れざるを得ません。そうと分かったなら、あらゆる変化──好ましいこともそうでないことも──「そうか」と、とりあえず落ち着いて受け入れる習慣、心の訓練というものが、家族や社会の中での立ち位置や為すべきことを示唆し、身体の不調や病にあっても心の平和を失わぬことにつながるのではないでしょうか。
 
そしてそこに、たとえ尊大でなくとも、地味ではあっても、自分の役割、天分、天命というべきものが見えてくるのではないでしょうか。
 
 

合掌

        

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。