ブッダの言葉【愛しきもの】ダンマパダより
人はとかく「愛」という言葉を持て囃しがちである。
スピリチュアルの世界においては、とりわけその傾向が強い。
「愛」というワードをふんだんに散りばめておけば、いかにも愛に満ちたライトワーカーの体裁は整う。
しかしそこにあるものが、果たしてどれほどの実質を伴っているのか――
私はかねてより、どこか”お流れ頂戴”のように慣習化された、薄っぺらさを感じてきた。
また「愛」を語る一部の教師の周囲に、金銭や異性関係のトラブルが絶えない現実を見るとき、
そこに現れているものは、非常に限定的で差別的、さらには営利に満ちた“愛の形”であることも少なくない。
仏教がしばしば「愛」を妄執の種として退けるのも、ゆえなきことではない。
人の語る「愛」とは、多くの場合、自我の影響を色濃く受けたものであり、きわめて断片的である。
それは自らに快や安楽をもたらす対象にのみ向けられ、
条件に合致すれば「愛」と呼ばれ、外れればたちまち敵味方を分かつリトマス紙のように働く。
そして、その「愛」は環境や条件次第で、
一夜にして憎しみに転ずることすらある――
この移ろいやすく、儚く、頼りなきもののうちにこそ、
我々人間の陥る無明の姿がある。
お釈迦様は、その根本をすでに見抜いておられたに違いない。
愛しきもの
すべきでなないことを行い
すべきことを行わず
目的を捨て、欲望の対象に執着する人は
目的に向かって進む人を羨む。
他人との交わりにおいて
愛憎の念を抱くな。
愛しい人と別れるのは苦しく
憎い人に会うのも苦しい。
愛しい人への執着を持つな。
愛しい人を失うのはつらいから。
愛しい人、愛しくない人と、他人を区別しない人には
しがらみがない。
愛しさから憂いが生じ
愛しさから恐れが生じる。
愛しさを離れれば
憂いも、恐れもない。
情愛から憂いが生じ
情愛から恐れが生じる。
情愛を離れれば
憂いも、恐れもない。
快楽から憂いが生じ
快楽から恐れが生じる。
快楽を離れれば
憂いも、恐れもない。
欲情から憂いが生じ
欲情から恐れが生じる。
欲情を離れれば
憂いも、恐れもない。
激しい愛着から憂いが生じ
激しい愛着から恐れが生じる。
激しい愛着を離れれば
憂いも、恐れも生じない。
戒めを守り、見識をそなえ
教えを実践し、真実を語り
自分がすべきことを行う人は
人から愛される。
言葉であらわせない境地(安らぎ)を志し
心は満ち足りて
感覚的快楽に囚われない人
かれは「流れを上る人」と呼ばれる。
※流れを上る人・欲望は激流に喩えられる。修行・実践は、その激流に打ち勝ち、下流に押し流されず、むしろ上流に進むことに喩えられる。
久しく旅に出ていた人が
遠方から無事に帰って来たならば
親戚、友人、親友たちから
祝福して迎え入れられる。
そのように、善い行いをした人が
この世からあの世に行ったならば、善い行いの果報により
迎え入れられる。
スピリチュアルの世界においては、とりわけその傾向が強い。
「愛」というワードをふんだんに散りばめておけば、いかにも愛に満ちたライトワーカーの体裁は整う。
しかしそこにあるものが、果たしてどれほどの実質を伴っているのか――
私はかねてより、どこか”お流れ頂戴”のように慣習化された、薄っぺらさを感じてきた。
また「愛」を語る一部の教師の周囲に、金銭や異性関係のトラブルが絶えない現実を見るとき、
そこに現れているものは、非常に限定的で差別的、さらには営利に満ちた“愛の形”であることも少なくない。
仏教がしばしば「愛」を妄執の種として退けるのも、ゆえなきことではない。
人の語る「愛」とは、多くの場合、自我の影響を色濃く受けたものであり、きわめて断片的である。
それは自らに快や安楽をもたらす対象にのみ向けられ、
条件に合致すれば「愛」と呼ばれ、外れればたちまち敵味方を分かつリトマス紙のように働く。
そして、その「愛」は環境や条件次第で、
一夜にして憎しみに転ずることすらある――
この移ろいやすく、儚く、頼りなきもののうちにこそ、
我々人間の陥る無明の姿がある。
お釈迦様は、その根本をすでに見抜いておられたに違いない。
愛しきもの
すべきでなないことを行い
すべきことを行わず
目的を捨て、欲望の対象に執着する人は
目的に向かって進む人を羨む。
他人との交わりにおいて
愛憎の念を抱くな。
愛しい人と別れるのは苦しく
憎い人に会うのも苦しい。
愛しい人への執着を持つな。
愛しい人を失うのはつらいから。
愛しい人、愛しくない人と、他人を区別しない人には
しがらみがない。
愛しさから憂いが生じ
愛しさから恐れが生じる。
愛しさを離れれば
憂いも、恐れもない。
情愛から憂いが生じ
情愛から恐れが生じる。
情愛を離れれば
憂いも、恐れもない。
快楽から憂いが生じ
快楽から恐れが生じる。
快楽を離れれば
憂いも、恐れもない。
欲情から憂いが生じ
欲情から恐れが生じる。
欲情を離れれば
憂いも、恐れもない。
激しい愛着から憂いが生じ
激しい愛着から恐れが生じる。
激しい愛着を離れれば
憂いも、恐れも生じない。
戒めを守り、見識をそなえ
教えを実践し、真実を語り
自分がすべきことを行う人は
人から愛される。
言葉であらわせない境地(安らぎ)を志し
心は満ち足りて
感覚的快楽に囚われない人
かれは「流れを上る人」と呼ばれる。
※流れを上る人・欲望は激流に喩えられる。修行・実践は、その激流に打ち勝ち、下流に押し流されず、むしろ上流に進むことに喩えられる。
久しく旅に出ていた人が
遠方から無事に帰って来たならば
親戚、友人、親友たちから
祝福して迎え入れられる。
そのように、善い行いをした人が
この世からあの世に行ったならば、善い行いの果報により
迎え入れられる。
合掌


密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰
かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。
あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に
愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。
【追記】温かなお心遣いに心より感謝申し上げます
こちらの方は、私がアメブロを開設して間もない頃よりご縁をいただいている方で、これまでお加持やヒーリングを、ご本人はもとよりご家族にもさせていただいてまいりました。女性ながら波乱万丈の人生を歩まれ、数々の修羅場をくぐり抜けてこられた方でもあります。
そうした事から電話などでお話ししていても、違和感なくいわゆる「ツーでカー」のように響き合うものがあり(笑)いつも楽しいひとときを頂戴しております。
伊勢詣りの浜禊で知られる興玉神社は、私の師僧の寺ともご縁のある神社であり、私自身もこれまで幾度となくお詣りに立ち寄ってまいりました。そのような場所へ、ご多忙の中、遠路ご自身で運転され、私のためにご祈願してくださったご縁の尊さと温かなお心に、ただただ感謝の念が募るばかりです。
心より感謝申し上げます。
ハンドパンの音色が、静かに心に響きます。
かつてイベントでご一緒したご縁の方より、お見舞いとしてこの演奏をお届けいただきました。
音に宿るお心遣いに、深く手を合わせるばかりです。
私が今の道に入ってより、長きにわたりご縁をいただいている、某業界でも名の知られた女性からのお心遣いに、月日を経ても変わらぬ凛とした美しさのお姿を思い浮かべ、ただただ感謝の念に堪えません。
誠にありがとうございました。
東京都日野市にある高幡不動尊(高幡山金剛寺)は、真言宗智山派の別格本山であり、成田山新勝寺、川崎大師平間寺と並び、関東三大不動の一つに数えられています。
かつて私が娘様へお加持やヒーリングをさせていただいたご縁のお客様が、この度の私の不調に際し、高幡不動のお護摩に参座され、病気平癒のご祈願をしてくださいました。そのお心遣いに、心より感謝申し上げます。
また、氏神様や日々通われる神社にて、同様にご祈願くださっている方々からもお知らせをいただいており、この場をお借りして併せて深く感謝申し上げます。
オーサワの国内産有機にんじんジュースをお送りいただきました。
5月に予定しておりました兵庫出張セッションにつきましては、会場となるお宅をご提供くださった方の早々のお声掛けもあり、セッション・講話会ともにほぼ満席となっておりましたため、私からの詳細な告知は控えておりました。
そのような中、昨年10月の大阪・広島に続く兵庫セッションの折、加古川の会社にお邪魔させていただいたご縁から、このたびの明石市でのセッションにもお申し込みくださっていた方より、温かなお心遣いを頂戴いたしました。
兵庫セッションにてお目にかかれないことへの申し訳なさを感じつつも、お送りいただいた沢山のにんじんジュースから、私の身体を案じてくださる優しいお気持ちがひしひしと伝わり、深く感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
5月に予定しておりました兵庫出張セッションにつきましては、会場となるお宅をご提供くださった方の早々のお声掛けもあり、セッション・講話会ともにほぼ満席となっておりましたため、私からの詳細な告知は控えておりました。
そのような中、昨年10月の大阪・広島に続く兵庫セッションの折、加古川の会社にお邪魔させていただいたご縁から、このたびの明石市でのセッションにもお申し込みくださっていた方より、温かなお心遣いを頂戴いたしました。
兵庫セッションにてお目にかかれないことへの申し訳なさを感じつつも、お送りいただいた沢山のにんじんジュースから、私の身体を案じてくださる優しいお気持ちがひしひしと伝わり、深く感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
とのご連絡をいただき、昨日は体調も比較的良かったことから、自坊へお越しいただきました。
本来であれば、5月に予定しておりました広島出張セッションにてお会いすべきところ、わざわざ遠路よりご夫婦でお運びくださり、そのお心遣いに深く頭が下がる思いです。
ご夫婦ともに、私にとっては弟分・妹分のような存在の方々で、楽しく歓談するうちに、あっという間に時が過ぎていきました。
本来であれば、せめておなじみのニューガネーシャにてカレーでもご馳走したいところでしたが、今の私には叶わず、かえすがえすも残念に思っております。
また、じゃがいも、梅干し、茶碗蒸し、大根の漬物、わらび餅、たまご、いちご、りんごと、たくさんの心のこもった差し入れまで頂戴いたしました。
温かなお心遣いに、心より感謝申し上げます。
ブッダの言葉【洞窟についての八偈の経】スッタニパータより
人の身は思うようにならず、命もまた、私たちの思い通りにはなりません。
年齢を重ねるにつれ、私たち人間は自らにも周囲にも、その現実を見るようになります。
たとえば、二十代の頃には友人や知人の結婚といった朗報がもたらされ、
四十代ともなれば離婚や不倫の裁判沙汰、病の発症などを耳にし、
五十代ともなれば孫の誕生という慶びもある一方で、訃報や葬儀の知らせも増えていきます。
さらには、闘病や会社の倒産といった出来事も決して他人事ではなく、
それはやがて自らにも及び来る、諸行無常のあらわれでもあります。
このような現実の中で、多くの人がふと
「生きるとは何か」という根源的な問いに出会うのかもしれません。
しかし同時に、多くの人にとって、
死後という何か足場も定まらぬ見定め難いものに思いを向けることは避けがたく、
その不安を覆い隠すかのように、豊かさや健康、美といったものに心を向け、
それらを手にすることで安らぎを得ようとします。
けれども、その奥底には、なお拭いきれぬ不安と、触れがたい何かを抱えたまま生きている——
それもまた、この苦の娑婆を生きる人の姿なのかもしれません。
だからこそ、ブッダの言葉は、
いまこの瞬間に深く胸に響きます。
執着と欲望に揺れる私たちに向けられた、厳しくも静かな戒めの教えです。
洞窟についての八偈の経
洞窟(身体)にこだわり
多くの(煩悩)におおわれ、さまよっている人は
執着を離れることからほど遠い。
この世で欲望を捨て去ることは、じつに難しい。
感覚的快楽への欲望に囚われている人は、救いがたく
他人は救ってくれない。
かれは過去・未来に思いを馳せながら快楽を貪る。
感覚的快楽を貪り、それに没頭し惑わされ、物惜しみをし、正しい道から外れながら
「死後どうなるだろう」と
苦悩し悲嘆する。
それゆえに、生前に教えを実践すべし。
正しくないとわかったことは何であれ行ってはならない。
「人の命は短い」と賢者たちは説いている。
わたしは、この世の人たちが、命への妄執に囚われ
あがきもがいているのが見える。
愚か者たちは、命への妄執から逃れられずに
死に直面して泣く。
「自分のもの」に執着し、あがく人を見よ。
干上がって水の少ない流れの中で、飛び跳ねる魚のようだ。
これを見て、所有欲を捨て
命に執着せずに生きよ。
(欲望は感覚器官とその対象との)接触(から生まれること)を理解し
賢者は、欲望を制し、貪ることなく
自責の念にかられることを行わず見聞きすることに執着しない。
賢者は、感覚作用をありのままに理解し
所有物に執着せず、(煩悩の)激流を渡る。
かれは、(煩悩の)矢を抜き取り、励みつとめ
この世にもあの世にも欲するものがない。











