今回は、日本橋室町の福徳神社の御由緒について。
前回掲載した2014年当時は、新社殿完成直後の様子を撮影しただけでしたので、今回は少し詳しく掘り下げてみたいと思ってしらべました。結論から言うとだいぶ訝しい。
以前掲載した様子はこちら 第百十五回福徳神社
※2025.03.03 一部加筆修正しました
御由緒
下記は福徳神社で頒布されている御由緒をそのまま書き写したものです。
当社の創祀された時は明らかではないが、当社に伝わる略記によると、清和天皇の御代の貞観年間(八五九~八六七)には既に鎮座していたようである。当社は、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とした。その鎮座する社地は広大にして、社殿も広壮であったとされる。土地の人々は当社の森を「稲荷の森」と呼び、その森の一端に建てられていた石造の(里程標)一里塚を「稲荷の森塚」と呼び習わしていた。この里程標は、後に明暦三年酉年(一六五七)正月八日の大地震により崩壊。当時の人々が散乱していた石碑の破片を拾い集め、保存を図ったと伝えられる。左記は、その碑銘の写しである。
表 宮戸川邊り宇賀の池上に立る一里塚より此福徳村稲荷森塚迄一里
裏 貞観元年卯年三つき吉祥日
また、そもそも当社は、元来、武将の信仰が厚く、源義家朝臣(一〇三九~一一〇六)により深く崇敬されていたことが記されていたとも伝えられている。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されてと伝わっている。徳川家康公は、江戸に入府した天正十八年(一五九〇)八月に初めて当社に参詣し、その後も数度に渡って参詣している。更に、二代将軍秀忠公は、慶長十九年(一六一四)正月八日に参詣した折、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。この時、当社の古例である椚(クヌギ)の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出でたのを御覧になり、神社の別名を『芽吹(めぶき)稲荷』と名付けられた。元和五年(一六一九)二月に御城内の弁天宮を当社に合祀するにあたり、将軍自ら神璽を納められ、大和錦を奉納し、更には「社地縄張を三百三十三坪余り」と定められた。
【江戸名所図会】伊勢町河岸通の図
ご由緒の通りであれば、画像右上「道浄橋」の先に福徳稲荷があるはず。
未収の神社
これだけまばゆい由来があるのだから、過去様々な文献・書籍で紹介されていてもおかしくないのだけど、当社について触れているものをまるで見かけないことに疑問を持ち、調べてみることにしました。
現代でいう旅行ガイド誌的要素が強い彼の【江戸名所図会(1834年刊行)】でさえ、社地の隣に僅かばかりあった「浮世小路」の名が浮世茣蓙ないし遊女屋に由来すると触れているのに稲荷は無視していて、【江戸惣鹿子名所大全(1751年刊行)】にある「名稲荷」として上がる府内の二十四社にも無く、また稲荷を詳しく取り上げた【新編江戸砂子温故名跡志】にも名が見られない。
“出てくるもの”としては、天保初年(1831)に刷られた江戸稲荷番付に東の方前頭10枚目(96社中23番目)に「むろ丁福徳稲荷大明神」が登場するのだけど、番付なので由来はもちろん選出理由も無い。
由来を紐解く
貞観元年の創建は、江戸東京を代表する神田・山王・芝神明といった大社よりも古式ゆかしいのに、社伝以外の史料に何も載っていないのは不思議だ。出雲大社・金刀比羅宮・石清水八幡宮なんかよりも古い。
掲載していない書籍を探すというのは中々難しいものだけど、このブログを書くにあたってよく参考にしている【新編武蔵風土記稿】【江戸名所図会】【東京都神社史料】などは、隈なく探したけどやっぱり無い。最近のものではというと、新社殿完成とともに大々的にメディアに取り上げられるより前の2011年に刊行された、【江戸東京の寺社609を歩く(下町・東郊編)】を見たけどこちらも無い。
載らないということは主要な神社と見られていないからではないだろうか。
【豊年萬作之圖(五風亭定虎作・福徳神社所蔵)】
富士山と福徳稲荷が見えるとしたら神田方面から見渡した景色だろうか。同名異質の「豊年満作之図」は千輝玉斎作のものが群馬県の玉村町や文化遺産オンラインに紹介があるんだけど、同名の当社所蔵のは当社以外でこの作品を紹介しているページが存在しない。
由緒のあらまし
概要は以下の通り。
①貞観元年(859)と刻まれた一里塚に示されたのが当社で、明暦の大火で焼破した石碑の破片を拾い集めて再現したものの書き写しに基づくとする
②稲成森塚といい、当時存在したという福徳村の名を以て福徳稲荷と称する
③太田道灌が度々報賽し兜矢鏃数点を奉納
④徳川家康が度々参拝し鳩の杖を奉納
⑤将軍が参拝の度に茶器を帯同するのが煩わしいので茶器を当社に授ける
⑥秀忠は当社に立ち寄った際に、芽吹神社と別名を授け、御城内の弁天像と錦の幌を自ら納め、三三三坪の社領を安堵する
2006年ごろの福徳神社 当時は福徳神社ビル2階の吹きさらしの屋上に鎮座していた
由緒の違和感
記録や宝物が散逸するのは、天災・火事や戦災に見舞われた日本ではよくあることなのに、創建1300年の当社の由緒が詳しすぎる。江戸後期に寺社奉行から由緒を認められず蔵前に移転させられた当社が、なぜ日本橋に戻ってきて、つい数年前に突如として大きな神社と成り得たのかとても気になります。
狐疑したくなるほど訝しいのは特に①②⑥あたり。数字は御由緒のあらましに対応しています。
①、貞観より明暦の大火で焼破するまで、「宮戸川の邊り宇賀の池上に立る一里塚より此福徳村稲成森迄一里 貞観元卯年三つき吉祥日」と記された石碑が、1000年間可読の状態で残っていたと当社は主張する。あやしいのはそれだけではなく、律令時代の「一里」という距離は、現代の660メートルほどであり、宮戸川(駒形周辺)から当地まで最短でも4km程度。これは江戸時代の一里に相当する。
②、【長禄江戸図】という地図があって、真偽は別としてこれは当社創建の600年後に描かれたものです。ここに江戸の代表的な9つの古社が記されているのですが、この中に福徳稲荷はありません。
日本橋界隈にかつて存在した村名は、柴崎村・宝田村・平川村・平田村・福田村・前島村と、現代の東京でもなじみのある名であるのに対し「福徳村」は当社の由来以外で見かけない。それにこの時代、稲荷神またはその宮居に地名以外の語を冠する慣例はおそらく無いので、「福徳」の号はどこから来たのだろうか。
【福徳神社の狐像】福徳神社にあるものは、拝殿内の御本殿以外すべて新調されたものだ
③、山王日枝神社・品川神社・平河天満宮・湯島天満宮・愛宕青松寺・本駒込吉祥寺など43ヵ所に、太田道灌が創建、造営、お手植えの由来を持つ神社が散見できるものの、奉納品があったとするのは江戸城紅葉山ゆかりの六本木久国神社と当社だけ。※現在、参拝済みの神社1400社の内。上記外36ヵ所は最下部に記載します
④、徳川家康が鳩の杖を携帯していたという逸話自体見かけない。ちなみに護国寺には徳川家とのかかわりは不明ですが元禄十六年(1706)奉納の鳩杖が収蔵されています。
⑤、「将軍が尼崎屋又右衛門宅に度々訪れ、その度に茶器を帯同するのが煩わしいので、当社に預けていたが、いつしか賜った」という。しかし尼崎屋は商人として戦陣での御用を務めた特権町人であり、外様の格式も付与された彼の拝領屋敷は、当社と同地か隣地。神社に預ける特段の理由を見出せない。
また江戸初期の寛永年間に描かれた【武州豊島郡江戸庄図】に僅かばかりの浮世小路が描かれているのに333坪の当社は描かれて無い。
⑥、将軍自ら神像を納めに御出座しになるのは異例であるのに【東武実録(秀忠の事績録)】【徳川実紀(初代から十代までの史書)】にこの事績が無い。またこの由来は大塚護持院の大僧正によって創建した木場洲崎神社の、“桂昌院の守り本尊である弁財天を江戸城紅葉山から移して代々徳川家の守護神となった”に酷似している。
なにより全国300藩の諸大名の頂点に立ち、各地の寺社勢力を支配下に置く御政道の最高権威が、外出中の一存で他者を差し置いて当社の拡大に加担することが有り得るのか。
本当に将軍がこの地を訪れ「福徳とは目出度き神号である」と称賛したのなら、新たに芽吹神社の号を贈るのは前言を打ち消す行動になって、なんとも収まりの悪いストーリーに感じてしまう。
第2の三囲神社
2008年当時、福徳神社ビルを建て替えてパリミキが建ち、急転直下で更地にして再び社務所ビルが建った。日本橋室町エリアの一大再開発に当たり、空中権を確保するのに、ただの公園や広場を設けても人は来ないのなら、パワスポ・御朱印ブームに湧く今、いっそ神社に供して古式ゆかしい「鎮守の森」を造成し、東京福めぐりを新設して客を引き込めると、三井ゆかりのこの地にきっとご託宣があって芽吹いた物語なのかもしれない。
福徳稲荷のその後
江戸時代後期に寺社奉行から由緒を否定され、古社ではないとみなされた福徳稲荷はじめ、所属が曖昧な宗教者は、城郭の外に出されます。福徳稲荷は当初渋谷の豊沢村へ移動を命じられ、最終的には浅草御門の外、蔵前神社付近に移転しますが、氏子の協力を得て、「御堀の傍に蔵を建て、ついでに稲荷を作る」と幕府に申請し、わずか数年でしれっと日本橋に復帰する気骨を見せます。
※参考【福徳稲荷縁起考】筑後則著 他
太田道灌にまつわる寺社
さて、文中にありました43ヵ所は下記の通りです。
(量が多いのでリンクを張るのを諦めました)
板橋区弥生白箭稲荷・中野区弥生神明氷川神社・上高田氷川神社・中野区本郷氷川神社・文京区本郷櫻木神社・荻窪八幡神社・日本橋椙森神社・新小岩於玉稲荷・西麻布桜田神社・赤羽八幡神社・下高井戸八幡神社・品川神社・平河天満宮・愛宕青松寺・本駒込吉祥寺・西向天神社・台東千代田稲荷・日本橋千代田稲荷・道玄坂千代田稲荷・水稲荷神社・須田町柳森神社・日本橋常盤稲荷・上野花園稲荷神社・東田端東灌森稲荷・石神井台愛宕神社(現:厳島神社に合祀)・湯島天満宮・神楽坂正蔵院・神楽坂若宮八幡神社・神楽坂赤城神社・千歳初音森稲荷・日本橋小網神社・市ヶ谷亀岡八幡宮・豊玉氷川神社境内社・九段築土神社・山王日枝神社・芝大神宮・駿河台太田姫神社・小網町明星稲荷・西久保八幡神社・元麻布氷川神社・下高井戸八幡神社・江原町須賀稲荷神社・西落合自性院の猫地蔵、以上













