世界の信者の多くを占める、セム系一神教である三つの宗教のどれもが、偶像崇拝を禁止している。
これら各宗教が、偶像を崇拝するのを禁じたのは、偶像は人間が作ったものに過ぎず、神ではないからだという理由から来ている。
しかしその宗教の始まりを体感していない後世の人々や神学を学べない人々にとって、目に見えず、言葉で説明することのできない神を信仰するという行為はとてつもなく難しかったに違いない。
だから、キリスト教には磔にされたイエスが、ユダヤ教には厳しい戒律が、イスラム教には聖地巡礼が、つまり。信仰が具体的な"形"を持っていなければ、人々(大衆)に受け入れられなかったのだろう。
仏教に末法思想という歴史観があるが、その時代においては素晴らしかった教えも、ある程度の平和が続くと世俗はその本質を忘れて、その方法だけが機械的に続いていくようになる。
宮台先生は、システムが整うと人はクズになる。と言ったが、まさにそういうことなのだろう。
注意⚠️
ネタバレしてます。
「チ。ー地球の運動についてー」のアニメが、12回を数えたが、この回は神回である。
時は15世紀。
ルターによる宗教改革が始まる前のヨーロッパ。
キリスト教会の支配は、天動説の信仰と共にあり、それ以外の思想は異端者として排除されている時代だ。
しかし天文学に惹かれた人々が、その観察過程において、天動説の矛盾に気付き、密かに地動説を証明しようとする。何人もの犠牲を伴いながらもその思想は、元代闘士として異端を排除していたオクジーの元へと受け継がれる。
オクジーは、神の名の元に異端を殺す職業に疑問を感じていた。自分のやっていることが彼らを天国へ送る道だと信じていたが、自分に殺されたものたちはみな苦しい表情で死んでいく。
しかし同僚のグラスが、火星の観察によって異端者たちの言葉に心を動かされ、そして最後、オクジーにその思想を託して満足気に死んでいくのを見て、代闘士の職を投げ出す。
彼は教会に従うことなく純粋に知を求める修道士バデーニに出会い、彼の元でその目の良さを買われ、行動を共にする。
しかしその行動もやがて異端審問官に目をつけられることになり、逃亡しようとしたとき、バデーニはすべての記録を燃やして、自分以外の者に知られないようにしようとする。
バデーニは博識で知的探究心が強いが、学問を大衆が理解できないとするある意味、差別的な思想をもった人物だ。(それが神秘思想というものなのだろう)
けれどもオクジーは、バデーニが知識を独占しようとするその姿勢を批判する。それは彼らが出会った同僚や研究者たちを通し、感じたことをこう言葉にして伝える。
「自らが間違っている可能性を肯定する姿勢こそが学術とか研究には必要なんじゃないか。第三者による反論が許されないならそれは、信仰だ。
信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究と棲み分けられるべきでは?」
もうこれは、この作品の名言中の名言だ!
ー哲学と宗教前史 出口治明よりー
宮台先生の14歳からの社会学は、三日ほどあれば読める簡単な言葉で綴られているが、これは本当に名著であると感じる。
14歳とはあるが、いったいどれだけの大人がこの本に書いてあることを理解出来るだろうと?と疑問が湧く。
自分ももう少し前に読んでいたとしても、理解出来なかったと感じる。(今も怪しいが)
その中で、宮台先生は、"感染"という言葉を使って、誰か特定の人に導かれることの大切さを綴っておられる。
私も宮台先生に"感染"している一人だが、今はこの感染動機が失われ、競争動機、理解動機に甘んじているという。
凄い!と思った人に惹かれたとき、人は自発性ではなく、内発性を与えられるという。
内発性は、損得勘定に基づかない。
その行為自体が喜びになるという。
オクジーは、同僚や異端者や研究者たちに感染し、バデーニもオクジーに感染しそうになっている、その場面がまた素晴らしい。
異端尋問官から逃げるための時間稼ぎを買って出たオクジーに意味はない、間違っている。と退けながらも、その申し出を受け入れたバデーニは、別れ際、こう言葉をかける。
ー神よ。
救世主は私たちに約束されました。
私は復活であり、命である。
私を信じるものは、死んでも生きる。
慈しみ深き神よ。
この世からあなたのもとへ
お呼びになったこの者を
どうか約束のとおり
あなたの国に
お受け入れください
全ての罪のほだしから解放され
永遠の光のうちに迎えられ
救われた人々とともに
復活の栄光のうちに
立ち上がることができますように
主によって
アーメンー
キリスト教ってよく知らないけど、歴史上いろいろ悪い所もあっただろうけど、彼らが言葉の力を信じたのは、このセリフでよく理解出来るような気がした。
言葉は、感染するのだ。

