今日は久しぶりに
秋保の慈眼寺さんへ
足を運び
座禅会に参加してきました。
今回参加しようと思ったきっかけは
一人の友人の存在でした。
ここ一ヶ月ほど
深い悩みの中にいる友人。
私は友人として
話を聞くことはできても
その問題を解決して
あげることはできません。
何か力になりたいと思いながらも
できることの少なさや
不甲斐なさを感じていました。
そんな時、たまたま登録している
LINEに慈眼寺の座禅会の
お知らせが届きました。
もしかしたら何かの
きっかけになるかもしれない
そう思い立ち
友人に声をかけてみると
「行ってみたい」との返事。
今日は私が車を出し
二人で秋保まで向かいました。
慈眼寺さんには
これまで何度も
ご縁をいただいています。
中でも特に印象深いのは護摩修法です。
私はこれまで三度ほど
参加させていただきましたが
毎回、間近で塩沼亮潤大阿闍梨の
所作を見ることができました。
その一つひとつの動きが
本当に美しく、思わず
息を呑んでしまうほどです。
私自身、お不動様が守り本尊なので
様々な護摩の儀式に参加してきましたが
塩沼亮潤大阿闍梨の所作には
独特の美しさがあります。
長くしなやかな指先から
生み出される一連の動きは
まるで舞のようで
いつまばたきすればよいのか
わからなくなるほど見入ってしまいます。
節分の星祭りにも参加したことがあります。
慈眼寺さんの節分では、
「福は内、鬼も内」
という掛け声が響きます。
鬼を外へ追い出すのではなく
改心した鬼もまた受け入れるという
考え方に、日本らしい優しさや
包容力を感じます。
昨年、参加した茶話会も印象的でした。
法衣姿ではなく、デニム姿の
塩沼亮潤大阿闍梨とお話しする機会があり
いつもとは違う親しみやすい一面に
触れることができました。
そんな慈眼寺さんで
今回は初めての座禅会。
座禅会だから
座禅をするのだろうということは
わかっていても、実際には
どんな時間になるのか
想像がつきませんでした。
少し早めに到着した私たち。
友人は初めての慈眼寺なので
ショップを見たいと寺務所へ。
私は境内を散策していました。
すると、本堂隣の母屋の縁側で
二匹の猫を発見🐈
「猫ちゃん〜」
と声をかけてみたものの
猫たちは「何か用?」というような
表情でこちらを眺めるだけ😅
ところが、しばらくして
スタッフの方が餌を持ってくると
どこからともなく
猫たちが集まってきました。
一匹、二匹……。
気がつけば十匹以上。
「えっ、こんなにいたの?」
と思わず驚いてしまいました。
スタッフの方のお話では
最初は3、4匹だったそうですが
いつの間にか仲間が増え、
今では15〜16匹ほどいるのだとか。
久しぶりに訪れた慈眼寺さんは
いつの間にか
“猫寺”のようになっていました🐈
猫好きの私にとっては
思いがけない嬉しい発見です![]()
しかも、みんなくつろいでる〜💓
心地の良い住処と
なっているのでしょうね✨
そして午後一時。
鐘の音が響き渡り
座禅会が始まりました。
座禅についてのお話からはじまり
般若心経をみんなで唱え
大阿闍梨の法話を聴き
その後、座禅で静寂な時へと
進んでいきます。
その法話の中で特に印象に残ったのは
「感謝」と「謙虚さ」についての
お話でした。
人は何かができるようになったり
物事がうまく
運ぶようになったりすると
いつの間にか
慢心してしまうことがあります。
だからこそ
自分自身を振り返る反省の心と
周りへの感謝の心は
常にセットなのではないかと
おっしゃっておられました。
そんなお話を伺いながら、
自分自身の日々の在り方についても
考えさせられました。
最後はお堂の前で
参加者全員で記念撮影をして
座禅会は終了となりました。
外へ出ると
秋保の山々は瑞々しい緑に包まれ
静かで優しい風が吹いていました。
法話の最中、
目頭を押さえていた友人の姿を
私は見逃さなかった。
今日のこの時間の中で
何か心に触れるものが
あったのかもしれません。
座禅会が始まる前に
おみくじを引いた友人は
その内容にも驚いていました。
そこには、まるで今抱えている
悩みに対する答えのような言葉が
書かれていたからです。
友人は、
「本当に来て良かった」
そう何度も口にしていました。
そして
「今日聞いた話が全部、
自分のことを言われているみたいだった」
とも話してくれました。
冷静さを欠いていた自分に気づき、
考え方を改めた方が良い部分も
見えてきたのだそうです。
私はこれまで
人の悩みに耳を傾ける仕事に
携わってきました。
けれど今回、
友人が抱えていた悩みは
人間の根幹を揺さぶるような
深いものでした。
話を聞くことはできても
代わりに解決してあげることはできません。
どんなに親しい相手であっても
その人の痛みを完全に
理解することは
できないのだと思います。
それでも
その人のそばにいることはできる。
一緒に悩み
一緒に考え
一緒に時間を過ごすことはできる。
今回の出来事を通して私は
「寄り添う」ということの意味を
改めて学ばせてもらったような
気がしています。
答えを与えることではなく
その人が自分自身で答えを見つけるまで
共に歩むこと。
それが本当の意味での
寄り添うということなのかもしれません。
そう考えたとき
私は父と母のことを
思い出さずにはいられませんでした。
今でも両親の存在は
私にとって
とても大きなものです。
私は母になれなかったけれど
振り返れば、父と母の
深い愛情に守られながら
ここまで生きてくることができた。
苦しい時も、迷った時も
両親は私の人生を代わりに
生きてくれたわけではありません。
答えを与え続けてくれたわけでもありません。
けれど、いつも見守り
信じ、必要な時には手を差し伸べながら
私が自分自身の人生を歩むことを
支えてくれていました。
そのことを思うと
今でも父や母を超えることは
到底できないと思うのです。
そして、心の奥から
湧き上がってくるものがあります。
感謝です。
「感謝とはするものではなく、溢れるものだ」
そんな言葉を耳にしますが、
本当にその通りだなと思います。
ありがとうという言葉は
誰かに優しくしてもらった時や
親切にしてもらった時にも使います。
けれど感謝という言葉には
それ以上の深さがあるように感じています。
感謝は「感じて謝る」と書きます。
人生の中でたくさんの人に
支えられてきたこと。
自分一人では
生きてこられなかったこと。
そして、自分の未熟さや
至らなさも含めて認めていくこと。
そんな心が育まれた時に
自然と内側から溢れ出してくるものが
感謝なのかもしれません。
法話の中で、塩沼亮潤大阿闍梨が
こんなお話をされていました。
生まれてから今日まで
誰一人として人に迷惑をかけずに
生きてきた人はいません。
私たちは時として
自分一人の力で生きてきたような
気持ちになってしまいます。
努力してきたのは自分だし、
乗り越えてきたのも
自分だと思ってしまう。
けれど本当はそうではありません。
気づかないところで
たくさんの人に支えられ、許され、
助けられながら今日まで生きてきたのです。
それなのに、まるで一人で
生きてきたかのように思ってしまう。
それが阿闍梨のおっしゃる
「慢心」なのかもしれません。
そして、自分の未熟さに気づいた時、
人は初めて見えてくるものが
あるのではないでしょうか。
あの時、迷惑をかけてしまった人。
心配をかけてしまった人。
それでも見放さずにいてくれた人。
黙って寄り添ってくれた人。
そんな人たちの存在が
見えてきた時、
心の奥から自然に
湧き上がってくるもの
それが感謝なのかもしれません。
感謝とは
無理にしようとするものではなく
溢れてくるもの。
自分の未熟さを認め
人とのつながりに気づいた時
自然に生まれてくるもの。
だから感謝には
どこか謙虚さが伴うのだと思います。
今日の法話を聞きながら
私はそんなことを感じていました。
型の大切さも説いておられました。
先人が作った型に学ぶことの大切さ。
友人を支えようと思って
訪れた慈眼寺でしたが
気がつけば私自身もまた
多くの学びをいただいていました。
人生は
一人で学ぶものではなく
人との出会いの中で
学ばせてもらうものなのですね。
今日の静かな座禅の時間と
秋保の美しい緑
そして友人との大切な一日。
この1日も私の人生で
大切な1ページとなりました。
帰りは、2人でラーメンを食べて🍜
寄り道して、深い話をしながら
帰路へつきました。
人とのご縁は本当に不思議です。
これからも人のご縁を大切にしていきたい
そんなことを改めて思う日曜日💕
今日も最後まで読んでいただき
ありがとうございました🙏💕





