こんばんは。
早咲きの桜が咲いているのを
先日、車で走っていて見かけました![]()
もう、春ですね💕
3月もまもなく終わります。
今月はとにかく慌ただしくて
気づけばあっという間に
過ぎ去っていったような・・・
出張が続いたり
大きなイベントもあったりして
その準備や運営に
時間を使う日々が続いていました。
以前の私ならば
「忙しい」と愚痴を
こぼしていたかもしれません![]()
今は不思議とそんな感覚はなくて
ただ淡々と目の前のことをこなしている
そんな感覚なのです。
最近、感じている変化があります。
昔のように
「あれもやらなきゃ」
「これもやらなきゃ」と
自分を追い立てることが
少なくなってきました。
できなくなったのか
しなくなったのかは
分からないけれど
「それ、無理してやらなくてもいいよね」と
思えることが増えてきたのです。
ひとつひとつ
不要なものを手放していくように
少しずつ荷物を下ろしていく感覚。
そうしていくと
思っていた以上に心も体も
軽くなることに気づきました。
これまでどこかで
「やってあげなきゃ」と思っていたこと。
でも本当は
一人ひとりが自分の人生に
責任を持って生きればいい。
それなのに
あれも、これもと
背負おうとしていたのは
違っていたのかもしれないということに
気づいたのです。
その背後にあるのは
必要とされたいとか
存在を認めてもらいたいとか
そんなこともあったのかもしれない。
3月の初旬に参加したある研修で
「自分に責任を持つ」の意味が、
ストンと腑に落ちました。
自分に責任を持つことができれば、
人生はとてもシンプルになる。
春分からの3日間
お世話になっている
羽黒山伏の星野先達をお招きして
イベントを開催していたのですが
先達がよくおっしゃる
『受けたもう』という言葉。
その中にこそ、
本当の意味での
“責任”が含まれているのだと感じました。
「責任を取る」と聞くと
どうしても重たいものを
背負うようなイメージがつきまとう・・・
でも本当はそうではなくて、
起こるすべてのことを
「これは自分から始まっている」と
受け入れるだけなのかもしれない。
肚をくくる
覚悟を決めるような・・・
それが責任という言葉の
本当の意味なのではと
今は感じています。
人生の中で起こる出来事は
多々ありますが、見方を変えれば
まったく違う意味を持ちます。
頭では分かっていたつもりでも、
どこか腑に落ちていなかったこと。
それが今回、
「受けたもう」という言葉とともに
ようやく自分の中に
落ちてきたように感じています。
今朝、ふと目にした
テレビの内容がとても印象的でした。
サバンナで生きるチーターの物語。
チーターという生き物は、
本来は単独で狩りをし
単独で生きるのだとか。
けれど、近年
環境の変化とともに
オス同士で群れを作り
チームとして生きるチーターたちが
現れてきているそうです。
番組では、2017年頃から追い続けている
5頭のオスのチームの姿が紹介されていました。
共に生き、共に狩りをし、
支え合いながら過ごしてきた仲間たち。
時の流れの中で、一頭、また一頭と
命を落としていき
今ではそのチームの中で
たった一頭だけが残されていました。
それでもなお、
そのチーターはたくましく生き続けている。
その姿に、とても心を動かされました。
老いるとは、人間に限った話ではありません。
動物も同じです。
チーターは、もともと短命な生き物で
オスは3年ほどで命を終えることも
多いそうです。
そんな中で長く生き、
しかも“本来の生き方”とは形を超えて
変化しながら生きている姿。
老いてもなお、培ってきた知恵を駆使して
生きながらえているその姿が尊いと感じたのです。
その姿に自然界で生き抜く
しなやかさのようなものを感じました。
従来の在り方に固執せず
変わっていくことが、
自然の一部であるということ。
それは、私たち人間も
同じなのかもしれません。
「こうあるべき」
「こうしなければならない」
そんな枠の中で生きるのではなく
状況によって変化を
受け入れていくという在り方。
ある程度の余白を持って生きていく
みたいなね。
変化を拒むのではなく
むしろ楽しむくらいで
ちょうどいいのかもしれません。
ですが、変化は恐れも伴う。
人は本来、変わることに
抵抗を感じる生き物です。
それはきっと、
生き延びるために
必要な本能でもあるのでしょう。
けれども同時に、
変化していくことそのものもまた、
自然の理。
私たちが日々の中で
少しずつ変わっていくことも
時代とともに在り方を変えていくことも
すべては“自然の理”の中に
あるのかもしれない…
そんなふうに感じた朝でした。
そしてもうひとつ感じていること。
情報が自分ごとになったとき、
それは「知識」になるのだということ。
その知識を
実際の体験の中で使い、感じ、
体得していくことで
それは少しずつ「知恵」へと変わっていく。
知識は理解するものだけれど、
知恵は生きる中で使われていくもの。
いろいろな人との出会いや出来事を通して
これからの日々の中で体感しながら、
自分の知恵へと変えていけたらいいなと
思っています。
何かを少し聞いただけで、
「わかったつもり」になってしまうこと
よくあると思います。
それは本当の意味で理解していることとは
やはり違うのだと思うのです。
その内容そのものを
ちゃんと理解しているのか
あるいは
その言葉を伝えている人の在り方まで
感じ取れているのか。
そこには
とても大きな違いがあるように思います。
2回、3回と話を聞いて
「ああ、こういうことね」と
思ったとしても
それが本当に自分の中に
落ちているのかどうかは、
また別の話。
だからこそ、
急いでわかったつもりになるのではなく
何度も触れながら、
少しずつ自分の中に落とし込んでいくことを
大切にしていきたいと感じています。
こういったことを
感じている背景には
今という時代の流れもあるのかもしれません。
いわゆる「風の時代」と言われるように、
情報があふれ、誰もが簡単に
さまざまな知識に触れられる時代。
とても便利で豊かな反面、
一度や二度、何かを聞いただけで
「そうなんだ」と
思い込んでしまいやすい側面も
あるように感じています。
もともと日本人は、
真面目で、勤勉で、
人の言葉を素直に受け取る
美しさを持っています。
けれど、その反面、
あまり疑うことをせずに
受け入れてしまうことが、
時に思わぬ方向へと
つながってしまうこともある。
平和ボケみたいなことも
言われますが、
だからこそ、これからは
ただ受け取るだけではなく
自分の中で確かめていくこと。
実際に体験しながら、
自分の感覚で理解していくこと。
そうやって初めて、
本当の意味で「知る」ということに
つながっていくのではないかと
最近強く感じています。
すべてのことはどこかでつながっていて、
「受けたもう」という在り方や、
自分に責任を持って生きるということへと
自然と導かれているように感じています。
さて、今年5月に
シュタルナ主催で
秩父三十四札所巡礼リトリートを
開催いたします✨✨✨
巡礼は、私のライフワーク。
何のために?とよく聞かれますが
そこに呼ばれているように感じるし
何より行って実際に観たいし感じたいから。
たぶん、神仏に会いにいくというワークは
死ぬまで続いていくのだろうと思います。
今年は午年の総開帳ということで
普段は閉じられている扉が開かれる
特別なご縁歳です。
午年の方もそうでない方も
呼ばれているような気がする方も
そうでない方も大歓迎です。
⇈






