現在、目黒区美術館で開催されているのは、
“岡田謙三 パリ・目黒・ニューヨーク”という展覧会。
戦後、アメリカへと渡り、日本字画家として初めて、
ニューヨークで活躍した岡田謙三(1902~1982)の大規模な回顧展です。
サブタイトルには、3つの都市名が並んでいますが、
岡田謙三が生まれたのは、パリでも目黒でもニューヨークでもなく、横浜。
貿易商を営む裕福な家に生まれました。
幼き頃より、美術に興味があり、絵を描いたり、
集めてきた千代紙を配置する遊びに夢中だったそう。
やがて画家を志し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学します。
本展の冒頭を飾るのは、その入学の頃に描かれた静物画です。
いかにも、印象派の影響を受けた日本の洋画家の作品といった感じ。
良くも悪くも、そこまで個性は感じられません。
さて、入学した翌年1923年に、関東大震災が発生。
描くことがままならない状況となってしまいました。
そこで、同級生の高野三三男に誘われ、
思い切って美術学校を中退、パリへ留学します。
パリでは、藤田嗣治や海老原喜之助、
同じように留学に来ていた外国の芸術家たちと交流。
帰国後は、パリでの経験をもとにした絵画を次々と発表しました。
ちなみに。
帰国から数年後には、目黒区自由が丘に新居とアトリエを築いています。
本展には、そんな目黒時代に描かれた絵画も紹介されていました。
パリ帰りで、自由が丘暮らし。
なんとも優雅な生活を送った印象を受けますが、
1940年代に入ると、彼の人生にも戦争が影を落とします。
岡田も当時の画家たちと同様に、戦争記録画を描きました。
本展では二科展に出展されたという《群像習作》が出展されています。
パリ留学時代から、本人が他界するまで、
岡田謙三は長年にわたって、藤田嗣治と交流をしました。
それゆえ、本作は藤田の戦争記録画《アッツ島玉砕》との関連が指摘されているそう。
確かに、構図や雰囲気は似ていますが、
《群像習作》の画面左には、白馬が描かれており、
それが希望の象徴のようにも感じられました。
《アッツ島玉砕》と比べれば、どこか救いがある絵のように思います。
戦時中は東北に疎開していた岡田ですが、
終戦後は、目黒区のアトリエに戻り、群像表現に取り掛かるように。
その頃に描かれた大作の1つが、《五人》です。
これまでの作風から、ガラッと一転。
マティスの絵を彷彿とさせるものがあります。
ただ、描かれているのが、5人の女性と考えると、マティスではなく、
ピカソによるキュビスム絵画《アヴィニヨンの娘たち》の影響があるのかもしれません。
その後、岡田の作風はさらに劇的に変化します。
かねてから海外への挑戦を計画していた彼は、1950年代に、
戦後新たな芸術の中心地となったニューヨークへと乗り込みました。
そして、当時のニューヨークを席巻していた抽象表現主義に大きな衝撃を受けます。
その斬新すぎる表現を理解できず苦しんだという岡田ですが、
制作の合間に、積極的にギャラリーを巡り、抽象表現主義を吸収。
次第にその表現をものにしていきます。
さらに、ギャラリー巡りを続ける中で、
ベティ・パーソンズという画商に出逢い、その才能を見出されました。
1953年には彼女の画廊で初個展が開催され、メディアから好評を博します。
その後、岡田の作品はニューヨーク近代美術館やグッゲンハイム美術館に収蔵されるまでに。
アメリカンドリームを絵にかいたような人生です。
ちなみに。
ニューヨーク時代の岡田の作風は、「幽玄」をもとに、
岡田自らが名付けた造語である「ユーゲニズム」と称されています。
本展の後半では、そんな「ユーゲニズム」な作品が一堂に会していました。
抽象画は抽象画なのですが、
どの作品からも、“和”が感じられます。
そう、岡田の抽象画のイメージソースは、千代紙のコラージュ。
なんとなく、平安料紙っぽい印象がありましたが、
実際に複数の和紙を組み合わせたものをもとにした絵画だったのですね。
しかし、本展の冒頭でチラッと言及されていた千代紙が、ユーゲニズムの肝だったとは!
壮大な伏線回収でした。


ちなみに。
岡田謙三は気分転換をかねてよく夫婦で、
目黒区のアトリエの近所にあるテニスコートで、テニスをしていたそう。
そこで出会ったのが、福岡の老舗百貨店・岩田屋(現・岩田屋三越)の社長夫人。
その縁から、岡田は包装紙のデザインを手掛けています。















