分かりやすい解説の般若心経 | 慈しみのひかり。

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視えない世界、精神世界について書いています。
特に、魂、神佛、霊界について。


 皆さま ごきげんよう。

 以前にも
 亡き師が書かれた般若心経の解説を
 数回に分けてブログアップしましたが、
 今回はそれをぐっと短縮したものを
 お届けします。
 
 平成3年7月の御説法です。
 学者の解説ではなく、
 あくまで亡き師による解説であることを
 御了解のうえ、ご一読くださると嬉しいです。
 

 「摩可般若波羅蜜多心経」
 と書いてありますね。
 このお経は、けっこう宗派問わずで
 唱えられています。
 神様の前でも佛様の前でも、
 ここに来ましたら神・佛は一体と言いまして、
 神・佛は全く同じものです。

 特に神・佛という言葉を使う時には、
 神は宇宙を創造した元々のそういう存在と。
 佛様はそれをみんなにわかりやすく、
 ほどいていく、
 そういう存在ということでね。
 慈悲を表すという存在なんですね、
 佛様っていうのは。

 だから同じなんですよ。
 父親でも子どもに対しては、お父さんですよね。
 自分の存在としてのそういう表し方もあるし、
 それから子どもに対して
 慈悲を投げかけていこうという、
 名付け方もあるんです。
 そうなったら、お父さんなんですよ。
 でもお父さんは別個に自分個人なんですね。

 だから神様というのは
 宇宙を創造したという、そのままの存在を
 神様と字で表してもいいんで、
 それと八百万(やおよろず)の
 神々(上様かみさま)は、
 日本で使う神々というのとは
 元々の神とちょっと意味が違いまして、
 人間より多少境涯が高いということで、
 上という字を使った方がいいということなんですね。

 それとは本当は混同したくないわけで、
 今も言ったように佛様というのは、
 慈悲をみんなに示していきたい。
 そういうことで佛という名付け方をしたわけで、
 神=佛なんですよ。

 みんなに衆生に
 慈悲を投げかけるっていう方面で呼ぶと、
 佛様っていう方がふさわしいなと。
 ですから神・佛一体なんです。
 だから、神様の前で
 般若心経を唱えるのがおかしいとかいうのは、
 あたらんわけですね。
 お経だから佛様の前じゃないかと。
 けれど、意外と神様の前で唱えるんですね、
 要するに神・佛一体ですから。

 昔は神社で神様を祀った横に、
 ちゃんと観音さんが祀ってあったり、
 観音さんのことをある意味でいうと
 神様って言ったりもするわけですよ。
 だから、垂迹(すいしゃく)って言うんですね。

 要するに、佛様が衆生済度のために
 一般の八百万の神々のような形を持って
 現れるっていうことで、垂迹っていうんです。
 あるいは権現と言いますね。
 大権現、権現は神様(上様かみさま)だと。
 それで、この上様(かみさま)っていうのは
 人間より上の境涯という字を使った方が
 いいわけで、衆生済度のためにこの佛様が、
 仮に神の形になって現れたものを
 権現というわけですね。

 だから、神様の前で佛様の知恵を説く、
 そういうお経をあげても差し支えないわけで、
 意外と形にこだわる人は、
 何で神様の前でお経をあげるんだ!と。
 けれど、おんなじなんですよ。
 だから、わかりやすく言うと、
 神社の前で「南无阿弥陀佛」唱えても、
 おかしくないわけですよ。
 天照大神と阿弥陀佛というのは
 同じものなんですね、本質が。

 だから神様の前にいって、
 「南无阿弥陀佛」
 言ったらおかしいやないか!って、
 それは形のことであって、いわゆるどこでも
 この般若心経っていうのは
 通用する神・佛の願いっていうか、
 知恵を表したお経ということなんです。

 摩可っていうのは、
 「マァハ」っていうインド語ですね。
 「偉大なる」。
 「摩訶不思議」とよく言いますね。
 それは人間では計り知れないことを
 「摩訶不思議」というんですね。
 「偉大な」って言葉です。
 「マッハ」というのも
 「超スピードでマッハ」
 あれも同じような語源から出てきてますね。
 「偉大なるスピード」ですね。

 般若というのは、
 「パーニャ」というインド語ですけど、
 知恵ってことですね。
 「内在された知恵」ということです。

 こうして魂が神・佛から生み出された時には
 人間の内在された知恵というのがありまして、
 例えば人間が生まれてきたら
 教えなくてもやることあるんですね。
 赤ん坊でもおっぱいを吸うとか、
 こういうのはひとつの知恵なんですよ。
 本能とも言いますけどね。
 ですから学んだのではなくて、
 元々、佛から与えられていた知恵という
 その力というのがある。
 あなた方の心臓が動くことも
 自分個人の肉体の力ではありません。
 それだって神・佛の力なんですよ。
 こういうのは内在されておるわけですね。
 修行して得たっていうものではなくて
 「パーニャ」というのは
 「元々、佛から与えられている知恵」
 という意味です。

 般若波羅蜜多
 「パァーラ・ミッタ」っていうのは、
 到彼岸(とうひがん)と書きます。
 向こう岸ヘ渡るという意味で。
 だから修行して
 悟りの境涯に渡るということではなく、
 内在されていた知恵ということと同じで
 元々あたわっているのです。

 悟りを開くという言葉を使いますが、
 あれは吾が心(立心偏に吾と書き=悟)を
 開くということなんです。
 中にすでにあったものを
 「そうだった!」と
 目が覚めた時には開けているわけで、
 これが「ほとけ」たら佛様なんですよ。
 内在された知恵も、
 彼岸に渡るということも同じなんですね。
 彼の岸(悟りの境涯)に渡る、
 それを説いた偉大なるお経ということで
 「心経」です。
 中心になるお経。

 釈迦の説いた「般若経」というお経がありまして、
 何べんも何べんも繰り返して
 その佛の知恵を説くということで「般若経」。
 知恵を説いたお経というのがあります。

 その中から抜粋して
 「この言葉が大事だよ」という
 中枢(ちゅうすう)を表したのが
 「般若心経」なんです。
 だからこれだけ読めば
 般若経が何を言いたいかということが
 全部出ているわけです。

 偉大なる佛の知恵を説いた、
 彼岸に渡る(悟りの境涯に渡る)お経と
 言ってもいいわけですね。
 そこに内在されたという意味も、
 今も言ったようにあるわけです。
 偉大なそういうお経ということですね。

 本文に入りますね。
 「観自在菩薩」
 これは観世音菩薩のことです。
 一般に観音さんというのは有名ですね。
 これイコールだと
 あまり思ってない人がいるんですね。
 あまりおわかりに
 ならなかったんじゃないですか。
 観自在菩薩と観世音菩薩。
 観音さんというのは有名ですね。
 けっこう慈悲深い菩薩として誰しもが知ってます。  阿弥陀様より有名ですね。

 「南无阿弥陀佛」は唱えんけど、
 観音様はお参りに行くとかってありますね。
 要するに、阿弥陀佛の慈悲を現す、
 現世に現れてきて
 それを実行すると言いますか、
 それが観世音菩薩なんですよ。
 要するに、阿弥陀佛の慈悲を
 そのまま働く存在ということなんですね。

 これは世の中のありさまを観て、
 慈悲を投げかけるっていうことで
 慈悲深い菩薩として、
 観世音菩薩というのは有名ですね。
 世の中の音です。
 世音を観て、ふさわしい救済を与える。
 元々、インド語の直訳をしましたら、
 本当は観自在菩薩なんですね。

 自由自在を心であきらかに観ることができる。
 自由自在を観ることができる菩薩ということで
 観自在菩薩なんですね。
 その観自在菩薩が、「行」です。
 行っていた、行をしていた。

 「深般若波羅蜜多時」
 深い知恵、悟りの境涯に
 到達するための行を行っていた時。
 という意味です。
 悟りの境涯に渡る
 その修行をしていた時ということです。

 「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」
 「照見」というのは、
 あきらかに物事を照らして見る。
 物事を見通すということが「照見」なんですね。
 「五蘊」ていうのは、色・受・想・行・識。

 身体があって、受というのは、
 受け入れる器官ですね。
 五感があって、五感があるということは、
 熱いとか冷たいとかいう感覚がありますね。
 これが「受」なんですよ。
 きれいなものを見ると「あぁ、きれいだ」と思う。
 目でそのきれいを感ずることを「受」といいます。
 受け入れる器官のことを「受」というんですけど、
 次は想念なんです。
 きれいとか、まずいとか
 そういうことを想念の「想」という字を
 書いてあります。

 色・受・想・・・「行」は、それに対して
 「美味しい物はもっと食べたい」とか、
 「きれいな花だから1本折っていきたい」とか、
 これが意思なんですよ。
 あなた方は感情について、意思が起こるんですね。 

 「きれいな花だからもっと見ていたい」とかね。
 これを「行」と言います。
 普通「行」といったら
 身体を動かすことを「行」といいますね。
 でも心が伴うから身体が動くわけです。
 だが、思いがあるから、
 意思があるから身体が動く。
 夢遊病者のように
 本人の意識がないのに
 めったやたらに動いとるのは
 「行」とは言わんのですよ。
 それは本人がもうろうとして、
 ただ身体が動いてるだけで
 そういうのを「行」とは言わないです。

 要するに人間にとって意識があり意思がある。
 それによって動くことが出来るので、
 この「行」は意思を表しています。

 「識」は意識の識で
 全体をひっくるめた人間の魂のことを
 「識」と言います。
 これを「五蘊」と言いますね。
 これは皆「空」である。
 それは「空っぽ」という意味もあるけれど
 「形に見えるほど固定的なものではないですよ」
 という意味なんですよ。
 般若心経の解説を読まれたことはありますか?

 この「空」という言葉は
 説明できないんですね。
 学者では。
 要するに、信仰で見るか
 ただ言葉の解説で見るか?
 ということで全然感覚が変わってくるんですよ。
 ところが世の中の般若心経の解説書は、
 なんとか大学の教授とか
 学問的に説いてしまうわけです。

 
 理解するには難しい箇所が
 あると思いますが
 理解する必要はありません。
 心で感じ取ってください。

 この御説法、続きがあります。
 それは、また次回に。
 

 🌾🌾🌾

 私は神ごとをさせていただいているので、
 彼方此方の神社仏閣に呼ばれますが
 真言密教大本山 大岩山日石寺は
 毎月参拝しています。
 もう、30年以上。

 
 不動明王です。



 機会がありましたら、

 ご参拝ください。

 弘法大師様もいらっしゃいます。

 かつて、目から白い光を私に発せられ、

 ご自身がいる事を私に教えられた弘法大師様です。

 


 ここまでお読みくださり、
 ありがとうございます。
 皆さまとのご縁に感謝致します。