大阪城が出来る80年前、本願寺の上人(僧侶ではなく上人)が自分の隠居場所を探していた。
蓮如(れんにょ)上人。
年はこの時代にしては珍しく、なんと80歳を越えていた。
石山本願寺といえば大きな城砦を持った寺院だと思っている人が多いだろう。
最初に立てられた石山本願寺というのは、とても小さな「寺」ではなく「庵」だった。
蓮如上人といえば、「仏の前では皆平等」「南無阿弥陀仏」を諸国の農民に説いて周り、「講(こう)」という集まりを作って人々に説法して行き、本願寺の門徒(一向宗ともいう)と寺院を飛躍的に大きくした人物だ。
当時は、本願寺の本山は京都の山科(やましな)にあって、教祖親鸞の像も山科に奉られていた。
蓮如上人は高齢なので隠居をしようと考えていた。
堺の商人万代屋(もずや)の松田五郎兵衛という人の助けで、大坂(当時は大阪ではない)・・・当時は生玉の庄(いくたまのしょう)と呼ばれていた所を買い取ってもらい、そこに庵を建てた。
「そもそも当国 摂州(せっしゅう) 東成郡(ひがしなりのこおり) 生玉の庄(いくたまのしょう)内 大坂という在所は 往古よりいかなる約束のありなるにや さんぬる 明慶・・
これは蓮如上人が書いた日記。
蓮如上人自身は自ら信仰する宗教に真面目に取り組み布教に努めた人だった。
しかし、応仁の乱後も勢力を持っていた細川氏が山科の本願寺の本山を焼きうちにしてから、本願寺の運命は変わってしまった。
本願寺は新たな本山を蓮如上人がいた大阪に決めた。
全国から寄付を集めて大きな堀を掘った。
組あげる石は、なぜか沢山転がっていた。
当時の人々のほとんどは知らなかったと思う。
そこに難波宮があったとは・。
堀の大きさは今の大阪城の敷地とほぼ同じ位置、同じ広さだったと言われている。
そしてここに、戦国上人、顕如(上人または門跡)が現れた。
(反響を見たいだけなのでジャンルは気にしないでください)
