誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は、仲哀天皇の皇子として記紀に登場しながら、ほとんど語られることのない人物です。
なぜその名だけが残されたのでしょうか。
古事記と日本書紀の違い、そして伝承を手がかりに、謎多き皇子の姿を追います。
【第一章】記紀で異なる母
誉屋別皇子を調べていて、まず驚かされるのが、古事記と日本書紀で母親の記述が異なっていることです。
古事記では神功皇后の子とされており、応神天皇の兄にあたる人物として記されています。
一方、日本書紀では、誉屋別皇子は弟媛(おとひめ)の子とされています。
つまり、どちらを採るかによって誉屋別皇子の立場は大きく変わってしまうのです。
もし日本書紀の記述に従うなら、誉屋別皇子は複数いた仲哀天皇の皇子の一人に過ぎません。
しかし古事記の記述に従うなら、神功皇后の長男であり、応神天皇より先に生まれた皇子ということになります。
【第二章】皇位継承
仲哀天皇の皇子であれば、皇位継承をめぐる物語に登場しても不思議ではありません。
実際、古事記・日本書紀では応神天皇即位の前に、忍熊皇子や麛坂皇子との皇位継承を巡る争いの話が登場します。
ところが、誉屋別皇子の名前はいっさい現れません。
仲哀天皇の皇子である以上、何らかの形で歴史の表舞台に現れてもよさそうだからです。
若くして亡くなった可能性もあります。
あるいは、政治の世界から距離を置いていたのかもしれません。
けれど、記紀はその理由を語ってくれません。
私は、記紀以外に誉屋別皇子の名前が残っていないかを探しました。
【第三章】伊奈冨神社に残る系譜
三重県鈴鹿市の伊奈冨神社に興味深い伝承が残されていました。
それは、
「仲哀天皇の御子 品屋別命(誉屋別皇子)の子孫が代々当社の神主として仕えた」
というものです。
もし誉屋別皇子が幼くして亡くなったのであれば、「その子孫が神職を務めた」という伝承そのものが成立しません。
少なくとも伊奈冨神社の伝承では、誉屋別皇子は成長し、子を残した人物として記憶されていたのです。
伊奈冨神社(いのうじんじゃ)
三重県鈴鹿市稲生西2-24-20
【第四章】語られなかった理由
ここまで見てくると、私は『日本書紀』の記述の方が実態に近いのではないかと思います。
伊奈冨神社の伝承が正しいなら、誉屋別皇子は夭折したわけではなく、成長して子孫を残した人物です。
古事記では、誉屋別皇子は神功皇后の子とされています。
もしそうであったなら、応神天皇の兄ということになり、
そのような皇子が、皇位継承をめぐる記述にほとんど登場しないというのは、少し不自然に感じます。
一方、日本書紀では誉屋別皇子は弟媛の子とされています。
その場合、仲哀天皇の皇子ではあっても、神功皇后の子ではありません。
母の身分がさほど高くもないということで、皇位継承の中心からやや離れた立場にあったと考えれば、記録が少ないことにもある程度説明がつきます。
もちろん、何が真実だったのかは分かりません。
しかし私は、誉屋別皇子は日本書紀が伝えるように神功皇后とは別の女性の子であり、もともと天皇の後継者として有力視される立場にはなかったのではないかと思っています。
だからこそ、名前は残りながらも、大きな物語としては語られなかった。
【終章】もう一人の母
私は、誉屋別皇子の母については、日本書紀の記述が正しく、誉屋別皇子は弟媛の子であり、神功皇后の実子ではなかったと考えます。
では、なぜ古事記では神功皇后の子として記されたのでしょうか。
もちろん、本当のところは分かりません。
ただ私は、小説を書く中で一つの可能性を考えました。
誉屋別皇子は、神功皇后の養子になったのではないか。
そう考えると、古事記と日本書紀の記述の違いも理解できるような気がします。
史料は多くを語りません。
だからこそ、その沈黙の中に様々な物語を想像することができます。
私はそんな想像から、誉屋別皇子を小説の中に登場させました。
・第19話|誉屋別皇子