なぜ、仲哀天皇 は和歌山の地に宮を置いたのでしょうか。

 

徳勒津宮 は、『日本書紀』にその名が記されているものの、

なぜこの場所が選ばれたのかについては、詳しく語られていません。

 

しかし実際に現地を歩いてみると、

その理由を考える手がかりが見えてきます。



本記事では、徳勒津宮の立地と周辺の痕跡を手がかりに、

この宮が持っていた意味を、あらためて考えていきます。

 

 

 

【序章】忘れられた行宮

 

和歌山の市街地から少し離れた場所に、

徳勒津宮跡の碑があります。

 

けれど、その姿はあまりにも静かなものでした。

 

3台の車が停まる駐車場と住宅街

 

駐車場の端。

背の高い草に埋もれるように、ひっそりと立つ石碑。

 

徳勒津宮跡の石碑と周辺の野草

 

注意していなければ、通り過ぎてしまいそうなほどです。

 

ここにかつて、

仲哀天皇 の行宮が置かれていた。

 

そう言われても、すぐには実感が湧きません。

 

なぜ、この場所だったのか。

 

何もないように見えるこの土地には、

かつて宮が置かれるだけの理由があったはずです。

 

その理由を探すために、

私はもう少しだけ、この場所の周りを歩いてみることにしました。

 

 

【第一章】水門という記憶

 

その答えを探して向かったのが、水門吹上神社。

 

水門吹上神社へ続く鳥居と境内

 

徳勒津宮跡から車で10分ほどの場所です。

境内には、神武天皇の東征に関わる「男水門」の碑が立っていました。

 

徳勒津宮跡の石碑と竹林

 

水門《みなと》は港を意味します。

 

この地が、単なる内陸ではなく、

水上交通の要所であったことを示しているように思えます。

 

【第二章】中之島という地形 

 

現在の紀ノ川は整備された流れになっていますが、

古墳時代の地形を見ると、

この地域は紀ノ川と大門川に挟まれた、

いわば“中洲”のような地形だったことが分かります。

 和歌山平野の古墳時代の地形と遺跡図 

 

徳勒津宮跡 がある場所は、現在の地名でいえば「中之島」と「新在家」の境目にあたります。

 

現地に立っているだけでは、特別な場所には見えません。

しかし、この地の過去をたどると、その印象は大きく変わっていきます。

 

 

『紀伊続風土記』(1839年)には、

徳勒津とは、河浜の津渡の地であると記されています。

 

また、宮の東、およそ四町(約四百メートル)の場所には、

「得津」という字名があったと記されています。

 

“津”という言葉は、港や渡し場を意味します。

 

川に囲まれた土地。

渡し場として機能する“津”。

そして、そこに置かれた宮。

 

それは単なる偶然の配置ではなく、

水の上の交通を意識した立地だったのではないでしょうか。

 


【第三章】瀬戸内とつながる文化


ここまで見てきたのは、地形と水の流れでした。
では実際に、この地を行き交っていた人々はどこへ向かっていたのでしょうか。

その手がかりのひとつが、和歌山市立博物館に展示されている土器です。



弥生時代初期から中期にかけての土器は、畿内のものとは異なり、瀬戸内海東部の土器と共通点が多いとされています。

紀伊は畿内に近いにもかかわらず、文化的には瀬戸内と強く結びついていました。
それは、この地の人の流れが内陸だけでなく、海へ向かっていたことを物語っています。

川を下り、海へ出る。
そして瀬戸内へとつながる。

この地は、古くから外へと開かれた場所だったのです。

 

【第四章】木の国という条件

 

しかし、海に出るだけなら他の港でもよかったはずです。

たとえば、古くから港として栄えた難波。

都にも近く、交通の要衝でもあります。

 

それでもなお、紀伊が選ばれた理由は一体何でしょうか。

 

その理由として、もうひとつ考えられるのが

この地の持つ資源です。

 

紀伊国は、「木の国」と呼ばれてきました。

 

豊かな森林に覆われ、

古くから良質な木材を産する土地です。

 

『日本書紀』には、
素戔嗚尊 がこのように語ったと記されています。

我が子が治める国に「浮宝(うきたから)=船、木材」がないのは良い国とは言えない、と。

そう語った素戔嗚尊は、自らの身体から木々を生み出します。

髭から杉を。
胸毛から檜を。
尻の毛から槇を。
眉から楠を。

そして、それぞれの用途を定めました。

杉や楠は、船の材として。
檜は、宮殿の材として。
槇は、人々の生活に関わる道具として。

さらに、その子である
五十猛命 と、
大屋津姫命、枛津姫命 の三柱は、
これらの木の種を各地に植えてまわり、
最終的に紀伊国へと渡ったとされています。
 


 

船は、木から作られます。

 

そして、船は一隻では足りません。

航海を行うためには、継続的に木材が必要となります。

 

紀伊は、海へ出るための場所であると同時に、

そのための資源を備えた土地でもあったのです。

 



【終章】なぜここに行宮が置かれたのか

 

こうして見てくると、徳勒津宮の意味は少しずつ浮かび上がってきます。

 

水の出入口に位置し、

川と海を結び、

さらに木材という資源を備えた土地。

 

それは単なる滞在地ではありません。

 

仲哀天皇は、この場所から先を見ていたのではないでしょうか。

 

海の向こうへ。

そして、そのための準備へ。

 

徳勒津宮とは、

海へ向かう意志が形になった場所だったのかもしれません。



史料は、その意図を語ってはくれません。


だからこそ私は、

この空白を物語として描いてみました。


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