なぜ敦賀は、古代から日本海側の要衝とされてきたのでしょうか。

 

福井県南西部に位置する敦賀は、日本海に面した港町です。古くから北陸と畿内を結ぶ交通の結節点であり、街道と港が交わる場所でもありました。

こうした地理条件のため、敦賀には古代から多くの人々が海を越えてやって来ました。

 

古墳時代には異国の王子が上陸し、奈良・平安時代には国家が迎える使節が訪れ、やがて海外商人もこの地に現れます。

 

敦賀は、時代を超えて人と文化が交わる「海の交差点」でした。

 

 

【第一章】古墳時代| 海を越えて来た王子 ― 都怒我阿羅斯等者

 

敦賀駅の駅前に立つと、ひときわ目を引く像があります。

 

都怒我阿羅斯等像

 

都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。

 

敦賀という地名の由来になったと伝えられる人物です。

 

像の由来説明には、こうあります。

『日本書紀』巻第六――第10代崇神天皇の世、額に角のある人が船に乗って越国の笱飯浦(けひのうら)に泊まった。ゆえにそこを「角鹿(つぬが)」と呼んだ、と。

 

大加羅国の王子であったと記される都怒我阿羅斯等。

額の「角」は、本当に身体にあったのか。あるいは異国の兜か、冠か。

古代人の畏れや驚きが、その姿を誇張して伝えたのかもしれません。

 

「角額(つのぬか)」が縮まり「角鹿(つぬが)」となり、やがて和銅六年、第43代元明天皇の時代に「敦賀」の字があてられました。

 

駅前に立つその像は、敦賀という町のはじまりを、古い時代へと遡らせます。

 

 

 

『日本書紀』第11代垂仁天皇紀には、詳しい物語が残されています。

 

都怒我阿羅斯等は、大加羅国の王子として来日したと語ります。

「日本に聖王がいると聞いてやってきた」と。

 

しかし道に迷い、穴門(長門)から北へ回り、出雲を経て、ようやく越の国へ辿り着いたという。

 

日本海を伝い、島をめぐり、北から回る航路。

 

そこに、古代人が思い描いた日本海ルートが浮かび上がります。

 

やがて彼は垂仁天皇に仕え、三年を過ごし、帰国を許されます。

赤織の絹を賜り、それを持ち帰ったことが、任那(≒加羅)と新羅の争いの発端になったとも記されます。

 

物語は、外交と衝突の気配を帯びています。

 

これら全てが歴史的事実かは疑う余地があります。

しかし、敦賀が「海を越えて来た者の着く場所」として記されたことは事実です。

 

異国の王子が腰を下ろした港として、

この地名が語り継がれました。

 

駅前の像や、氣比神宮内にある角鹿神社は、静かにそれを伝えています。

 

角鹿神社

 

【第二章】奈良・平安時代| 渤海使と松原客館 ― 国家が動いた港

 

都怒我阿羅斯等の物語は、『日本書紀』に伝えられる出来事です。

そこには海を越えてやって来た王子の姿が語られていますが、当時の記録がそのまま残っているわけではありません。

 

しかし、時代が下ると事情は変わります。

奈良時代から平安時代にかけて、海を渡ってこの地にやって来た人々の記録が、歴史書の中にはっきりと現れるようになります。

 

その代表的な存在が、渤海使です。

新羅や唐からの使節もありましたが、その数は多くありません。

それに対し、奈良時代から平安時代にかけて、日本にはおよそ34回にわたって渤海使が来航しました。

 

中国東北部から朝鮮半島北部にかけて栄えた渤海は、日本との関係を求め、たびたび使節を送りました。

彼らは日本海を渡り、山陰から北陸にかけての港に上陸し、そこから都を目指して北陸道を進んでいきました。

 

その上陸地の一つが、敦賀でした。

 

渤海側の意図は、唐や新羅をにらんだ軍事同盟の模索であったと考えられています。

 

しかし、日本側の受け取り方は少し異なっていました。

 

使節が貢物を携えて来朝したことから、日本はこれを

「国威を慕って従属を願い出た朝貢」と解釈します。

 

そのため渤海使は、非常に厚遇されました。

 

ここに、外交の微妙な温度差が見えます。

同盟を求める国と、朝貢と受け取る国。

 

両国の思惑はさておき、事実として、両国の間で公的な往来が繰り返されました。

 

 

日本への航路

 

渤海使は、北西の季節風とリマン海流を利用して朝鮮半島沿いを南下し、

その後、対馬暖流に乗って日本海を横断しました。

 

来航は晩秋から冬にかけてが多かったといいます。

 

荒れやすい日本海を、風と海流を読みながら渡る。

 

その船が目指した上陸地の一つが、敦賀周辺でした。

 

 

上陸地としての敦賀

 

渤海使は、山陰から北陸、東北にかけての津に上陸しました。

敦賀は、日本海側で都に比較的近い位置にあり、北陸道が整備されていたため、有力な受け入れ地のひとつとなります。

 

上陸後、使節はすぐに都へ向かったわけではありません。

 

まずは「安置」。

つまり一時的に滞在させられ、食料や衣料などの生活物資が供給されました。

 

史料には「便処」に「安置」とあり、郡家や国府、駅館などが利用されたと考えられています。

敦賀の場合、その受け入れ施設とみられているかのが「松原客館」です。

 

 

気比神宮と松原客館

 

松原客館は、敦賀の松原に置かれていた外国使節のための施設です。

ここは単なる宿泊所ではありませんでした。

 

海を越えてやって来た使節を迎え入れ、都へ向かうまでのあいだ滞在させる。

いわば、日本海側の外交拠点ともいえる場所だったのです。

 

敦賀は、日本海の港であると同時に、北陸道を通じて奈良や平安京へとつながる交通の要衝でもありました。

松原客館は、その結節点として機能していたと考えられています。

 

平安時代中期に編纂された『延喜式 』には、

「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」

と記載されています。

 

つまり、この客館の管理は気比神宮の神官に任されていたのです。

 

敦賀では、港と神社が一体となって外国使節を迎えていました。

国家の外交は、こうした地方の拠点によって支えられていたのです。



【第三章】平安時代| 宋商人と藤原為時 ― 港が動かした人事

 

奈良・平安期、敦賀は国家使節を迎える港でした。

そして平安中期。港に現れるのは、国家ではなく商人たちです。

 

海を越えてやって来たのは、宋の商人たちでした。

 


 

突然の人事

 

長徳2年(996年)正月25日、

紫式部の父、藤原為時は淡路守に任じられます。

 

ところが、わずか三日後の28日。

右大臣・藤原道長 が参内し、すでに越前守に決まっていた源国盛を退け、為時を越前守へと変更させます。

 

淡路は「下国」、越前は「大国」。

国司の収入はまさに雲泥の差でした。

 

この異例の除目変更は、当時の人々の大きな話題となります。

説話集『古事談』『今昔物語集』『十訓抄』などに逸話が残りました。

 

為時は、

 

苦学寒夜、紅涙霑襟、

除目後朝、蒼天在眼

 

という詩句を女房を通して奏上したといいます。

これを見た一条天皇 は食も喉を通らず、涙したとされます。

 

その結果の栄転。

 

けれど、この美談の裏には、より現実的な事情があったと考えられています。

 

 

若狭に現れた宋商人

 


当時の中国大陸では、7世紀から約三百年にわたって栄えた大国・

唐が滅び、代わって

宋王朝が興っていました。


それまで日本の朝廷は、隋に遣隋使を、唐には遣唐使を送り、政治制度や文化を積極的に取り入れてきました。

しかし894年、遣唐使の派遣は停止され、日本は中国王朝と公的な外交関係を持たない状態になっていました。


とはいえ交流が完全に途絶えたわけではありません。

朝廷は、

大宰府を窓口とする民間貿易を認め、宋との交易は細々と続いていました。


そんな中で起きた出来事が、為時の運命を動かします。


長徳元年(995年)9月、

若狭国に宋の商人、朱仁聡・林庭幹ら七十余名が来着しました。


彼らはその後、若狭や越前に滞在します。


宋は当時、東アジア屈指の経済大国でした。

その商人団との交渉は、地方官にとっても朝廷にとっても、きわめて重要な問題になります。


しかし、日本は宋と正式な国交を結んでいません。

この問題は、うかつに扱えば外交問題になりかねない、きわめてデリケートな案件でした。


ここで求められたのは、武力でも血統でもありません。

必要とされたのは、言葉の力でした。


宋人と交渉するには、漢文を自在に扱える人物が必要です。


そこで白羽の矢が立ったのが、漢学者でもあった

藤原為時だったのです。


為時は典型的な学者官僚でした。

実際、彼が宋人の周世昌に贈った詩は、漢詩集『本朝麗藻』にも収録されています。


外交文書。

交渉。

そして詩の応酬。


港町で交わされたのは、剣ではなく言葉でした。


だからこそ、越前守という役職には、為時が最もふさわしい人物だったのです。

 

 

この逸話は、2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ 』でも描かれました。

 

光る君へ、大河ドラマ館の衣装展示

 

 

【第四章】海の交差点


そして現在。


敦賀の町を歩いていると、思いがけない光景に出会います。


駅前から氣比神宮へと続く道に、

宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999のモニュメントが並んでいるのです。


これは1999年、敦賀港開港100周年を記念して整備されたものです。

日本でも有数の「港と鉄道の町」である敦賀を象徴する存在として、宇宙をゆく船と鉄道の物語が選ばれました。


海へ向かう船。

遠くへ続く鉄道。


敦賀の町は、昔から「どこか遠くへ続く道」を感じさせる場所だったのかもしれません。


古墳時代には、海を越えて王子がやって来たという伝説が残り、

奈良・平安の時代には、渤海の使節が日本海を渡って訪れ、

平安中期には、宋の商人がこの海を航海してきました。


そして今、港と鉄道の町には、宇宙へ旅立つ船と列車が立っています。


時代は変わっても、

ここはいつも「遠い世界へつながる場所」でした。


敦賀とは、そんな町なのです。 




【第五章】なぜ敦賀に行宮が置かれたのか― 仲哀天皇と笥飯宮

 

敦賀には、もう一つ気になる記述があります。

それは、『日本書紀』に記された
仲哀天皇の笥飯宮(けひのみや)です。

『日本書紀』によれば、仲哀天皇は敦賀に行宮を置き、しばらくこの地に滞在したとされています。
しかし、その目的についてはほとんど語られていません。

なぜ、都から遠く離れた日本海側の港に、天皇の行宮が置かれたのでしょうか。

この記事で見てきたように、敦賀は古くから海の向こうとつながる場所でした。
古墳時代の伝承には、大加羅から来た王子・都怒我阿羅斯等の物語があり、奈良・平安時代には渤海使が日本海を渡ってやって来ます。
さらに平安時代には、宋の商人がこの地域に姿を現しました。

時代は違っても、敦賀には「海を越えて来る人々」が存在していたのです。

そう考えると、仲哀天皇が敦賀に行宮を置いたことも、単なる偶然とは思えません。


私には、仲哀天皇と
神功皇后が、この敦賀という港から、海の向こうの世界を見ていたのではないかと思えるのです。



一般には、仲哀天皇は新羅遠征に消極的であったとも語られます。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。

敦賀という港に行宮を置いたこと、そして海外とのつながりを持つ神功皇后と結婚したことを考えると、むしろその視線は、早くから海の向こうへ向いていたのではないか。

私はそんな想像をしています。

もちろん、これは史料から直接読み取れる事実ではありません。
けれど、敦賀という土地の歴史をたどっていくと、そんな物語が浮かび上がってくるようにも感じられるのです。

そして私は、この想像をもとに、仲哀天皇と神功皇后の物語を書いてみたいと思いました。

その物語を、小説
「神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―」
の中で描いています。

 

 

 

▶ 神功皇后と仲哀天皇の物語
小説「神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―」は こちら
小説も是非よろしくお願いします。