神功皇后:海を越える巫女王
 

第7話|夜に残る熱

 
【あらすじ】
 
約束の夜、帯姫のもとを訪れた足仲彦天皇。
甘い香りと近づく熱に心を揺らす帯姫。
身をゆだねようとしたその時、戦場で矢に倒れる天皇の未来を幻視する。
 
――――――
 
【本文】
 
 
敦賀では、足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》と息長帯姫《おきながたらしひめ》は正式に対面することなく別れました。
後日、天皇が帯姫の部屋を訪れるという約束だけを交わし、その日は解散となったのです。
 
それから数日後――
約束の夜がやってきました。
 
一月十一日の夜。
空は低く、雪がしんしんと降り続いていました。
屋敷の軒先にも白が積もっています。
 
帯姫は、炉に炭をくべ、灯りを落とした部屋で、ひとり静かに座していました。
冷えた空気が頬に触れ、指先はわずかにかじかんでいます。
それでも胸の鼓動だけが、いつもよりわずかに早く感じられました。
 
戸が静かに開きます。
 
外の冷気とともに、雪の匂いが入り込みました。
そこに立っていたのは、厚手の上着をまとった天皇でした。
肩には細かな雪がまだ残っています。
 
戸が閉じられると、室内は再び静まりました。
 
天皇は一度、静かに息を吐き、
肩に掛けていた上着をゆるやかに外します。
雪の冷気をまとっていた布が床に置かれました。
 
ふわりと、甘く、わずかに渋みを含んだ香りが流れ込みました。
外の凍てつく空気とは異なる、体温を帯びた香りです。
 
雪の夜であることを忘れさせるような温もりでした。
 
帯姫の胸の奥が、静かに波立ちます。
 
「――大王、お待ちしておりました」
 
深く、深く、頭を下げました。
 
天皇は静かに歩み寄ります。
足音は控えめで、それでも確かな存在感を伴っていました。
 
そして帯姫の左隣に、腰を下ろします。
 
外では雪が降り続き、
時折、屋根からさらりと落ちる音が聞こえました。
 
「面を上げよ」
 
その声は低く、夜に溶けるようでした。
 
帯姫が顔を上げると、天皇の瞳がすぐ近くにあります。
昼間に見たときよりも、ずっと深く、熱を宿しているように感じられました。
 
襟元からのぞく胸元に、灯りが柔らかく落ちています。
 
雪の夜の冷え込みの中、その肌だけが温かく見えました。
 
帯姫は思わず目を伏せます。
 
「お強くあられますのですね」
 
そっと触れた腕はたくましく、外気とは対照的に、確かな熱を持っていました。
冷えていた指先に、その温もりがじわりと伝わります。
鼓動が、かすかに響きました。
 
「守るべきものがあるゆえな」
 
その言葉とともに、天皇は帯姫の手を取り、
静かに胸元へと導きました。
 
伝わる熱。
鼓動。
近づく息遣い。
 
外は雪。
室内には炎。
炉の火が、ぱちりと小さく音を立てました。
 
甘い香りが、さらに濃くなります。
 
帯姫は目を閉じました。
身を委ねれば、この温もりに溶けてしまいそうでした。
 
――そのとき。
 
瞼の裏に、別の光景が走ります。
 
風を切る矢。
血の色。
戦場に立つ、勇ましくも孤独な天皇の姿。
 
その胸に、一本の矢が突き立つ。
 
「嫌……っ」
 
帯姫は思わず息を呑み、身を離しました。
 
冷えた空気が、二人の間に戻ります。
 
現実と幻が交錯し、胸が締めつけられました。
 
目の前の天皇は、驚き、少し傷付いた表情をしています。
 
「あ、いえ……違うのです」
 
言葉を探しますが、不吉な未来をそのまま口にすることはできません。
かえって天皇の心を曇らせるだけだと思い、言葉が詰まりました。
 
仕切り直そうと歩み寄ろうとしますが、震えが止まりません。
 
「……申し訳ありません」
 
唇がかすかに震えます。
 
「大王……お慕いしております」
 
震える声で、それだけを伝えます。
 
情を拒んだのではない。
むしろ、その逆でした。
 
この方を、守りたい。
この熱も、この命も。
 
(どうか……わたしに、祓わせてください)
 
天皇は、わずかに眉を寄せます。
しばらく沈黙が落ちたのち、天皇は静かに息をつきました。
 
「……そうか」
 
わずかに自嘲の色をにじませ、衣を整えます。
 
「すまなかった。無理強いはせぬ。これからのことは、また明日以降、ゆっくり話そう」
 
そう言って、帯姫から少し離れた場所に横になりました。
 
雪に包まれた夜。
二人の間には、触れ合わなかった熱だけが、淡く、確かに残っていました。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第8話「二つの影」では――
 
皇后として敦賀に宮を築いた帯姫の前に、やがて対立へと育つ二人の王子の影が静かに現れる。
 
 
3月24日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。