
わたしがスピリチュアルな世界に関心をもったのは、かれこれ20年ぐらい前になりますが、その当時はようやく積極傾聴やゲシュタルトといった実践的な心理カウンセリングのテクニックが一般的になって来たときで、スピリチュアルの世界でも、心理的なブロックをはずすというのは、比較的高度な技術を要していました。
しかし、昨今は心理カウンセリングやスピリチュアルの世界も進化しておりまして、だれでも比較的簡単に無意識層に刻まれた心理的なブロックを外せるようになってきました。
これはほんとに素晴らしいことです。
ただ、心理カウンセリングにしても、ヒプノセラピーにしても、神経言語プログラミングにしても、マインドブロックはずしにしても、それは「洗脳」と同じじゃないか~!! という意見もありまして、つまりは人の頭の中を勝手にいじって危険なんじゃないかという意見ですね。なのでマインドコントロール(洗脳)ということについて、少しおさらいをしておきたいと思います。
マインドコントロール(洗脳)って自分でやってたんだ~!!
洗脳というと、某カルト団体が社会を震撼させた事件で一般的に認知された言葉ですが、どうも多くの恐れと誤解とともに理解されているようです。
洗脳はマインドコントロールとも言いますが、ある状況下で、無意識層に指令を書き込める技術のように思われている節がありますね。
たとえば、マインドコントロール(洗脳)に関するもっとも大きな誤解の一つは...
マインドコントロールは本人の意思とは関係なく他者から強制的にされてしまうものである、というものです。
確かにマインドコントロール(洗脳)された人の体験談みたいな話では、どこかの施設に閉じこめられて、ひどい仕打ちを受け、おかしな思想を強制的に刷り込まれた~みたいな話を聞きますね。
どうやらこのことが誤解の原因でもあるようですが…
実はマインドコントロールは、自分で受け入れなければ、されることはありません。
つまり、他人が勝手に人の頭の中をいじるということは、たとえそれがスピリチュアル的手法であっても、不可能なんです。
しかし、何らかの脅迫的手段を用いることで、不本意な思想を無理矢理受け入れさせられるという状況は考えられます。
人は生命の危険を感じると、生存本能から、その状況から脱したり、適応するための方法を考えます。そのとき、その状況から逃れるには、そこで言われていることにYESと答えるしかないと思ったとしたら?
はい、いきすぎた犯罪捜査で自白を強要されて、つい「やりました」と答えてしまって、やってもいない事件の犯人にされてしまったという話と同じですね。
あるいは、誘拐犯に拉致された被害者が、犯人に好意を抱いてしまうようになるというのも、その一例です。
狭い部屋に閉じこめられて、来る日も来る日も、苦痛を与えられて、この思想を信じろと脅迫されたら、そうなる可能性は十分あります。
でも、結果はどうあれ、最後まで拒否することもできます。
マインドは自分自身の許可なくしては、何人も書き換えたりすることなど不可能なのです。
実は、私たちは生まれたばかりの時は、なんのマインド(=信念)も持ち合わせていません。まっさらの状態で生まれてきます。
うまれ落ちた時から、私たちは見たもの聞いたものを、心に刻んでいくのです。
つまり、私たちは日常的に、自分自身のマインドの中身を取捨選択しています。ようするに自分で自分のマインドをコントロールしているんですね。
興味を引くもの、印象の強いものはどんどんマインドに取り込まれていきますが、興味のないもの、必要のないもの、印象の薄いものは、マインドには取り込まれません。これらの活動は、すべて、この肉体を持って、この世界を生きるために必要なものです。
簡単に言えば、生きるために必要な情報はマインドに書き込み、不要なものは削除しているのです。
これはトラウマと言われるものも同じです。
トラウマとは、危険信号なのです。命が失われるかもしれない危なかった体験を記録することで、同様の状況に直面したときに、それを回避するように働く心の仕組みであり、安全装置なんですね。
トラウマは生きるための安全装置
たとえば、列車事故に遭った人が、以後列車を見る度に、体がすくんで動けなくなるのだとしたら、それは「列車に乗るのは危険だ」という情報がマインドに刻まれたことによるわけで、列車に近寄らないように、自動的に体の動きがストップするわけです。
そう考えると、人間というのは本当によくできているわけですが、その安全装置の働きが強すぎて、日常生活を普通に送るにも不都合がでてしまったとしたらどうしましょう。
そんな時にやくにたつのが、マインドを書き換えるお手伝いをする技術なのです。
特に、安全装置としてのトラウマは、危険回避のためには大事なものですから、一度セットされると、そんなに簡単には外せないようになっています。
明らかに生命を脅かすような事態によって作られたトラウマは、自分で解除することが非常に難しかったりします。
例えば、重大な事故もそうですが、代表的なものとしては、幼児期に作られたトラウマ各種です。幼児期は生きるために、自分を育ててくれる人が提供する環境に順応しなければ、生き残れないわけです。だからそういう時に身につけたトラウマやマインドというのは、なかなか簡単には外せません。
親元を離れ、自立して環境が変わっても幼児期に受けたトラウマやマインドの影響で、対人関係にトラブルが生じるということは多々あるのです。
というわけで、繰り返しになりますが、自分で書き換えられなくなったトラウマやマインド(=信念)を、書き換えるお手伝いが、心理カウンセリングだったり、ヒプノセラピーだったり、神経言語プログラミングだったり、マインドブロックはずしだったりするわけです。
これらは、あくまでも書き換えるためのお手伝いです。厳密に言えば、書き換えそのものは本人がしていることに変わりありません。ここは本当に正しく理解して欲しいところです。
マインドと愛の関係性
ここで疑問がある方もいると思います。マインドコントロールによって、人を愛したり愛せなかったりすることがあるのか? またマインドが書き換えられるなら、書き換える前と後とでは、どれが本当の気持ちかわからないじゃないか、というものです。
こういうところで悩む人は、哲学者の素質があると思います。それはそれで素晴らしいことだとは思いますが、自分の気持ちがわからないということは、またちょっと別の意味で、違うテーマですね。
はっきり言っちゃいましょう、どちらも本当の気持ちです。
判断というのは後付なんです。
例えば、拉致された被害者が犯人を好きになってしまったという事例で考えてみましょう。
拉致の恐怖から、被害者の方は生き残るためのマインドセットを構築するわけです。そうすることで、犯人と友好関係を築いて、生き残る確率を高めているわけです。その過程で犯人のことが好きになるということはあり得ます。犯人も人間ですから、いいところもあれば悪いところもあります。マインドセットを変更して犯人を別の視点で見ることができるようになると、そういったものも見えてくるわけです。
その上で好きになったとしても、それはそれで本物なのです。
というのもマインドというのは、あくまでも自分が世界をどう見ているかということを決めているに過ぎません。信念や観念が変化すれば、見え方が変わるだけなのです。相手が変わってるわけではないのです。マインドセットを変える前の相手も、変えた後の相手も、同じ相手です。相手は何も変わっていません。こちらの視点、観点が変わっただけなのです。
つまり、マインドセットはあくまでも、判断のためのツールなんですね。
そしてここが一番大切なのですが、愛は、判断を超えたところにあるということです。
そもそも愛は判断しませんし、判断を必要としません。
人を愛するということは、判断とは関係ないのです。
つまり、マインドセットの内容に関係なく、人は人を愛することができるのです。
なぜなら愛とは信頼です。判断に関係なく人を信頼することが愛です。
判断が変わることで、愛したり愛さなかったりするのであれば、それは最初から愛ではありません。それは単に好きか嫌いか、または自分のために益になるかならないかということだったのです。
そういう意味では、マインドが変わることで、愛かどうか分からなくなるのなら、それは最初から愛ではないということです。
でもマインドが変わっても、相手を大切にする思いがあるのなら、それは愛なのではないでしょうか。