
禍転じて福と為すという解釈はある意味正しい。
が全てではない。
我は、黄泉に下った伊邪那美神の元から帰った伊邪那岐神から生まれたが、それは見えざる世界に属するものであることを意味する。
つまり、禍とは、人には見えざる神の領分のことであり、人智を超えたことがらなのだ。
ゆえに人は禍を操ることはできない。それを引き寄せたり、または遠ざけたりもできない。
禍は自ずから起こるからである。
禍自体は、良くも悪くもない。熱くも寒くもない。多くも少なくもない。大小もない。
全ての事柄に等しく一様に含まれる。起こった出来事に意味付けするのは人である。
禍は、古きを滅し新しきを生む。創造と破壊の環であり、螺旋である。
螺旋を正面から見れば「◯(円)」であるが、横から見れば「~(波)」である。
これには、始まりもなければ終わりもなく、上もなければ下もなく、正も負もない。
これは神の中立・普遍を意味している。
マガツヒとは、ツ(すべてのものに)マガ(在る、在らざる、無限なる)ヒ(霊)である。
つまり、全てのものにまします神の御霊そのものである。
さて、質問に答えよう。
天体が一秒の狂いなく運行されているように、創造と破壊の環もまた一秒の狂いなく回っている。
安定が続けば変化が来たり、変化が続けば安定がくる。
朝が来れば夜は来たり、夜が来れば朝が来る。
その流れは変わることはない。
禍はすべて神の意志。
竹の寿命はおよそ40年である。一本の竹が、一つの種から芽を出して成長すると、地下茎を伸ばし多くの子をもうけ、やがては竹林をつくるにまで成長する。親竹の寿命は5~6年であるが、それは竹林の新陳代謝に他ならない。なぜなら竹林そのものが一つの命だからである。竹は40年もの間新陳代謝を繰り返し、よりよい種へと成長していく。そして最後に一度だけ花を咲かせ、種を作り、それを後世に残し、竹林は枯れる。
人の世も同じである。一つの命である二人の男女から多くの子がうまれ、人類は全地に満ちた。多くの時間と歴史の中で、多くが死にまた多くが生まれた。しかしそれは人類の新陳代謝であって、一つの命であることに変わりない。人類の霊性がこの大地を脱し、別天地に旅立てるようになったとき、人類はいよいよ花を咲かせ、種を残して枯れる。
それまでは、この大地とともに生き、新陳代謝を繰り返す。
大地もまた新陳代謝を続けている。
過去、大地は何度も死んでは蘇った。大地とともにすべての生命も死んでは蘇った。なぜなら大地の上の命はすべて大地と一つだからである。
人類は滅亡してもまた蘇る。
禍がきてもそれで終わりではないのだ。命はなくならない。命はひとつだからだ。
禍は、千人を殺し千五百の産屋を建てる。
人類が増えれば、人類は減る。
それは螺旋である。
世の雑音に心奪われぬようにしなさい。
それはほんの一時のことである。
どのような人物がどのような謀を用いようとも、この螺旋からはみ出ることは出来ない。
それ自体にはなんの意味もないのである。
彼らは幻を見ているだけに過ぎない。
よいか、親竹から離れた場所に生えた子竹は、大きく成長し多くの子をもうける。
しかし親竹のすぐわきから生えた子竹は、親を枯らすか、または弱々しく成長するのみだ。
それ自体に良い悪いはない。ただそうだったというだけのことなのだ。
人の世に起きることも同じである。振り返って見れば、ただそうだっただけのことなのだ。
だから許しなさい。
本当はだれも悪くない。また良くもない。
体験し、学び、成長している過程に過ぎない。
人はみな、一つの竹林の中の、一本の竹である。
ひとつ、自然災害について答えておこう。
大地と人は一つである。大地の上で起きることは、人や動物たちの意識と関係がある。
ここに我と関係の深い四柱の神の名がある。それぞれの意味は以下のとおり。
瀬織津比咩は、川による災害(水害)
速開津比咩は、海難、津波による災害
気吹戸主は、風の災害(台風など)
速佐須良比咩は、地震災害・火山の噴火・火災など
風による災害以外はすべて女性性の意識からくる災害である。
長い間、女性は虐げられてきた。そうして飲み込んだエネルギーは、大地の怒りとして噴出するのである。
近年このような災害が増えているのは、そのような虐げられてきたエネルギーが噴出しているからである。
ゆえに、赦しあいなさい。過去のことは水に流しなさい。
しかし無礼であってはならぬ。みな一つの命、自らの分霊なのだ。
だから互いに尊びあいなさい。大切にしなさい。尊重しあいなさい。
恨んではならぬ、呪ってはならぬ。
それらはみな大地が飲み込み、やがて己に返ってくる。
幻想に惑わされることなく、自らを律しなさい。
それが祓いの極意である。