過去記事、加筆修正シリーズ。2014年5月。
1945年10月25日、中華民国が正式に台湾を接収し台湾は「光復」を果たす。「日本文化の毒素」に侵された台湾人民を救い、台湾の「完全な中国化」を目指すための教育改革が行われることになった。
1945年10月25日、中華民国が正式に台湾を接収し台湾は「光復」を果たす。「日本文化の毒素」に侵された台湾人民を救い、台湾の「完全な中国化」を目指すための教育改革が行われることになった。
台湾の統治機構、「台湾省行政長官公署」の教育所(日本の文部科学省みたいなところ)は、1946年4月に「台湾省国語推行委員会」を発足させ、「国語(中国語)」の標準の確立と「国語(中国語)」教育推進の任にあたらせた。
ただし戦後しばらくは、台湾語などの住民の母語を通じた「国語」の習得も推奨され、「国語」独尊の時代はまだ訪れていなかった。台湾語や客家語など母語への圧力が始まる前、まず徹底的に排除されたのは日本語である。光復後わずか数年で日本語についての禁止令が次々と出されていった。
ただし戦後しばらくは、台湾語などの住民の母語を通じた「国語」の習得も推奨され、「国語」独尊の時代はまだ訪れていなかった。台湾語や客家語など母語への圧力が始まる前、まず徹底的に排除されたのは日本語である。光復後わずか数年で日本語についての禁止令が次々と出されていった。
光復後、台湾の人々がはじめて触れた祖国の「国語」は、ほとんど外国語のように学ばなければならないものだった。なぜなら中華民国が持ち込んだその「国語」は、台湾でも植民地前期まで知識人の書き言葉として教育され受け継がれてきた「文言文」ではなく、北京一帯の口語を基礎にして新しく作り上げられたいわゆる「現代漢語」だったからである。
それは台湾の人々が日常的に使用していた台湾語や客家語などとは全く異なっており、大多数の民衆はもとより知識人にとってもなじみの薄いものだった。
日本の植民地支配から解放された人々は、はじめ祖国への復帰を喜び、祖国の「国語」の学習に熱意を以って取り組んだとされる。しかし台湾には「国語」の教師も教材も圧倒的に不足していた。大陸から渡ってきた「国語」教師たちが教育現場に派遣されたが、教師としての力量だけでなく「国語」の実力もピンからキリまでで(地方出身者も多かったため)、台湾住民の「国語」の習得は思うようには進まなかった。
そのため、台湾の人々の間では日本語はやはり重要な位置を占めていた。それが台湾の「完全なる中国化」を急ぐ当局を焦らせ、上記のような急進的措置の原因となったと言われる。しかし前回見た通り、日本語教育しか受けられなかった世代の多数の知識人にとっては日本語が唯一の書き言葉であったから、日本語の禁止は即ち彼らの表現手段を奪うことであり、知的生産活動に制限を加えることであった。
早急な日本語禁止措置は台湾の人々にとって、不平等な権力分配にからむ大きな問題であった。そしてこのような言語的な葛藤が、1947年に勃発した二二八事件(憲兵隊によるヤミ煙草取締暴行事件を発端にした全島的な抗議行動を当局が武力で鎮圧、その後も続いた民衆弾圧、知識人虐殺を含めた一連のプロセス)の要因の一つとなったとも言われている。
こうして台湾の言語社会から「日本」はほぼ完全に消されつつあった。そしてその後には、「台湾」までもが排除されようとする時代を迎えることになる。続く
