空いてしまいました。。

 

ついブログの存在を忘れてしまうのですが

それも自分のあり方と関係しているのだと、

最近大きな気づきがあったので

言葉にして残しておこうと思う。

 

ずっと昔から不思議に思っていた謎が

50年生きてきて、

ようやく解けてきたような気がする。

そして謎は新しい段階に。。 

 


それは、端的に言ってしまうと、、


 

「自分はいるのだろうか」


 

はい。

こうやってブログ書いてるじゃないか

と思われるだろうけど。

 

 

自我が薄いのは前から気づいていた。

「自分」にあまり興味がないことも。


だからみんなが大好きな占いや

自己診断などにもあまり興味が持てない。

 

これは最近よく言われる

「自分を愛しましょう」というのとは

違う気がする。


精神の領域では無い感じ。

この領域の自分は感じられるし

そこでの自分は大好きだと思う。

 

 

子供の頃から疑問に思っていたこと。

 

デザインをしたり

ヘナアートを描いたり、

人の為に表現することは大好きだし

どんな物でも平気。

今描いている護符も

「自分」では無いのでどんどん描ける。

 

しかし

「自分」をアートで表現しようとすると、

どうしていいか分からず心底苦しくなる。

 

何かブロックがあるのだろうと

思っていたのだけれど

これは、自分を出すのが怖いという

「感情」ではなく

あえて言葉にするなら


「虚無」

 

 

最近、これと同じ感覚があった事に気がついた。

 

以前、とあるスピリチュアルな

ワークショップに参加して

誘導瞑想をしたときのこと。

イメージの中で色々な場所に行くのだけれど

自分のやり方について質問したことがある。

 

自分が何かしているイメージをする時に、

外(主に上空)から

自分をイメージするのは簡単なのに、

自分が主体のイメージをすることが難しい。


すごく頑張れば出来るのだけれど、

気を抜くとすぐに外からの視点に戻ってしまう。

 

それを話すと先生は

それは奥深い重大な問題だという反応をした。


ただその時は大人数でのワークショップで

個別に観てもらうことは出来なかったし、

私もそこまで深くは考えず、

瞑想に慣れてないんだなくらいにしか

思わなかった。

 

また、ヒプノセラピー的なものを

受けた時も同じだった。

自分の周りに何が見えますか、とか、

どんな服装をしていますかなどと聞かれると

急に混乱してしまう。


「自分で作ってもいい」と言ってくれるので、

超集中して多分こうだろうと

想像して話すのだけれど疲れるし、

不毛感を感じる。

(当時は自分でそんな風に思いたくなくて、

出来ていると思いきかせていた。)

 

それ以外に、ただ何かをイメージしたり、

チャクラなど体の中のイメージングは無理なく出来るのに

「自分」が入るととたんに

サーッと透明になる感じがするのだ。

 

 

この、「自分」を感じることの

出来ない苦しさが

絵を描く時と全く同じで

根底にあるのだと気がついた。

 

では、意識が体から抜けているのか、

グラウンディングできていないのか・・

というと、また違う気がする。

 

ベリーダンスをやっているのだけど、

踊っている時は心地よく、

エネルギーのダイナミックな動きや

周囲との一体感を感じることができる。


でもそれが「私」なのかと言われると

よく分からない。


 

また、私は現在一緒に暮らしている

パートナーとは

結婚してないし子供もいない。


そもそも、結婚したいとか

子供が欲しいというのが

どういう感覚なのかが分からない。

(ちなみに子供は大好き)


独占欲も無いので

「寂しい」という感情も

無くはないけれど人よりは薄い気がする。


 

 

文章にしてみると

完全にやばい人ですね・・・


 

 

うまく言葉に出来ないのだけど、

「個」を作るおおもとが

この世界にいないのか・・・?



車に例えると、

全てを整備しても

エンジンを動かす元が無い、とか。

サードアイが開いても

見る主体がいなければ何も見えない、

とか、そんな感じ。

 

 

 

この気づきの中で決断したことがある。


虚無の苦しみの中で

自分を表現することにチャレンジすること。


 

この世界は行動が全て。


 

全ての私から

ひとりの私へのプレゼントとして。


それが世界への

プレゼントにもなるのだと思う。


 

 

テーマも分かりました。


 

 

続きは次回・・・