映画「インディペンデント リビング」
食事にメモ
「ねこに未来はない」
買った本の感想です。
「ねこに未来はない」というタイトルより、長田弘さんの名前と長新太さんのイラストで買いました。
長田弘さんは詩人です。2015年に亡くなられました。
その作品は、穏やかで温かいのに、心に何かしら重いものを残したり、棘のような痛みを感じさせたりするのです。
読み始めて、「ああ、やっぱり」と思いました。
これは散文詩ではなく、エッセイなのですが、著者とねこたちの、出会いと別れの数々が描かれているのです。
ひら仮名の多い、優しげな文章なのに、ねこちゃん、可愛い〜という感想が許される甘さは皆無。
では、読者を拒絶するような冷たさ硬さがあるかというと、そんなことはありません。
あの小さくて柔らかな、毛むくじゃらの生き物への愛情は満ち溢れています。だからこそ、別れの場面が痛い。
猫を飼ったことがある人なら、おそらく一度は感じたことがある、とろけるような時間と、それから引き剥がされたときの苦痛。
それがとても普遍的なものなのだ、と思い知らされるエッセイです。
「ねこに未来はない」(長田弘著 角川文庫)
長田弘さんの真骨頂である散文詩。代表作は「深呼吸の必要」です。この中に収められている「あのときかもしれない」の優しさ、強さ、悲しさは特筆に値します。
「深呼吸の必要」(晶文社)
イケメンバディに萌える人向け
ドラマ向きではあるんですけどねえ。
娘と二人でため息をついたのが「准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき」(澤村御影著 角川文庫)です。
幼い頃のある体験以来、不思議な力が宿ってしまった大学生、深町尚哉と、美貌の民俗学准教授・高槻彰良が、それぞれの能力を駆使して巷の「怪異」事件を解明していく……という小説です。
ライトノベル、なんでしょう。
表紙がこれですから、ターゲットとなる読者層は自ずと知れます。
高槻准教授シリーズはすでに2冊めが出ていて、たぶんそこそこの売れ行きではないかと思われます。
結論から言うと、
民俗学に興味のある人は読んではいけない(笑)。
正統派「小説」を読みたい人も、読んではいけない。
知的なイケメン男性と変わり者の美青年が絡むバディものに萌える人は、ぜひ!
民俗学、と謳っている割には、民俗学薄いです。
それから、描写が直接的で単調なので、吟味された言葉で構成された小説を期待すると、がっかりします。
イケメンをイケメンって書いちゃったら、もう想像力の出番はなくなってしまうんです。1ページ中に3回も「イケメン」と出てきた時点で、ある程度イメージが規定されてしまうからです。
例えば、コナン・ドイルが作り上げたシャーロック・ホームズは、高身長で、ヤセ型で、鷲鼻で、角張った顎、という表現で描かれています。ここにイケメンあるいは、それに近い言葉が描かれていたら、小説としてどう受け止められるでしょうか。
残念ながら、今書店に並ぶ多くのエンタメ小説には、この手の類型的で安易な表現がたくさん出てきます。
書かなくてもいいセリフ、書かなくてもいい心理描写。
大御所として知られる小説家の作品にも、そういう部分が見受けられます。
その中で、私が比較的オススメしたいのは、やはり宮部みゆきさん、京極夏彦さん、伊坂幸太郎さん。恩田陸さんも、まあまあかな。
湊かなえさんはうまいけど、あの後味悪いストーリーに耐えられません^^;
もう現実世界がここまで世知辛いんだから、小説くらい気持ちよく読みたいんです。
でも、准教授小説、「これドラマ化するなら、だれをキャスティングしよう」という妄想はめちゃくちゃ膨らみます。
だって、34歳の高身長で、二重の大きな目、鼻筋はとおり、薄い唇には笑みが浮かんでるんですよ。
しかも、瞳はどういうわけか、ときどき深い青に光ったりする。
どの俳優さんなら演れますかね。
けっこうこき下ろしましたが、軽く読めて(だからラノベなんだけど)下品ではないから、用件の隙間を埋めるにはちょうどよい小説だと思います。
空蝉を見かけて思うこと
うつせみ
という言葉があります。
美しい響きです。
古語に「うつしおみ」という言葉があって、それは「この世に生きている人」「この世」を指すそうです。うつしおみが訛って、うつせみになったらしい。
「うつせみ」は「空蝉」でもあります。
源氏物語に、空蝉という段がありますね。
源氏に言い寄られるものの、薄衣一枚残して逃げ去ってしまう。
源氏を拒絶した、おとなしいけれど芯の通った誇り高い女性です。
空蝉はセミの抜け殻。
セミの抜け殻なんて、子どものおもちゃみたいなものですけれど、うつせみ、と書いたり言ったりするだけで、寂しげな風情が立ち上がります。
でも抜け殻って、ほんとうに不思議なものですね。
少し前まで、中身があって、それは確実に生きていたはずなのに、元の形を残したまま空になってしまうのです。
タイトルを失念してしまったのですが、海外のSF小説で、地球人の男性と異星人(昆虫人間)の女性との恋愛ものがありました。
二人が結ばれてしばらくすると、彼女の体は石灰化してしまう。
そしてある日、その「殻」が割れて、二人の子どもであるメスが現れる、というストーリーでした。
元の人格が跡形もなくなって、新しい生き物と殻だけになってしまう、という奇妙な悲しみのある物語でした。
夏の終りに、セミの抜け殻を見て、そんなことを思い出しました。
それぞれ 立つ位置を考える
言葉は、誰かとコミュニケーションをとるために存在しています。
でも、人と人の間で言葉が通じないことがあります。
どんなに言葉を尽くしても、どういうわけか、お互いの心の奥底に届かない。
なぜなのだろう、と悩んだことがあります。
考えた挙句、それは依って立つところが違うからだと思い至りました。
当たり前じゃないかとおっしゃる方も少なくないでしょうが、こういうことが争いの種になることは、頻繁にあるはずです。
叩く側か、叩かれる側か
保護する側か、保護される側か
買う側か、売る側か
取る側か、取られる側か
大人か、子どもか
男か、女か
あるいはそれらが複合的に合わさった関係か……
立ち位置の違いは、多くの場合、摩擦を生みます。
そして、国際関係に関して言うと、私たちはつい他国を非難しがちです。
国が違うのだから、物事すべてにおいて理解が違うのも当たり前なのに、です。
だから、誰かとコミュニケーションをとりたいときには、まず相手のバックグラウンドも理解する必要があります。理解が難しくても、違いがあることをまず認識しなくてはいけません。
自分が正しいと思って振り上げた拳は、相手にとってはただの暴力です。
桃太郎は正義の味方に見えるけれど、鬼ヶ島の鬼たちにとっては侵略者です。
(桃太郎の物語、古く遡れば遡るほど、鬼たちが村人から宝物を強奪したことにはなっていないそうです)
それは家の中のやりとりから、国際関係にも当てはまることだと思います。
なんでも受け入れるというのではなく、「モノの見方が違う」ことから始めて、相手とやりとりしなくてはいけない。
冷静に。礼節をもって。
最近の嫌韓的風潮を見ていて、あまりに残念なので書きました。










