それは裁きか救済か?
「懺悔することなどないのに教会へ行く娘」
と悪魔に言わしめるほどに純粋無垢な少女
ところが、恋に落ちた少女は、悩んだ末、孤独の中で、1人、子どもを生む。
そして、生まれた我が子を手にかけ、嬰児殺しの罪で処刑されることに。
ゲーテの『ファウスト』に登場するヒロイン
マルガレーテの物語である。
恋も遊びも知らず、研究に明け暮れた人生が虚しくなり、自らの手で命を終わらせようと考える老博士ファウスト
そんな博士の前に、突然、現れたのが悪魔のメフィストフェレスである。
「常に全てを否定する霊」
と自己紹介するメフィストフェレス。
悪魔と契約し、若さも富も手に入たファウスト博士。
美しい少女マルガレーテと熱烈な恋をし、逢いびきを重ねる2人。
ところが、そこに悪魔が関わったため、マルガレーテは母と兄を失ってしまう。
さらには、ファウストとの間に生まれた嬰児を手にかけ、死刑判決を受ける。
マルガレーテを脱獄させようとするファウスト。
だが、彼女は拒み、天に裁きと救いを求める。
純粋無垢な少女マルガレーテは、処刑され、命を終えた。
ズザンナ・マルガレータ事件(1771-1772年)
この物語のモチーフには若きゲーテが体験した事件がある。
ズザンナは、ゲーテの故郷であるフランクフルトの居酒屋で働く貧しい給仕女だった。
ある日、店にやってきた異国の商人と恋に落ち、身籠ってしまう。
しかし、男は彼女が妊娠したことを知ると、そのまま姿を消してしまった。
18世紀のドイツ(当時は神聖ローマ帝国)では、キリスト教的な道徳観から未婚の妊娠・出産は「不義密通」として激しく弾劾され、社会的な死を意味した。
孤独と恐怖に追い詰められた彼女は、誰にも相談できず、お腹をきつく縛って周囲に妊娠を隠し続ける。
そして1771年8月、居酒屋の暗い物置で一人で男の子を出産。
パニックに陥ったズザンナは、生まれたばかりの我が子を手にかけ、命を奪ってしまう。
数日後、遺体が発見され、彼女はすぐに逮捕された。
22歳の弁護士ゲーテが受けた衝撃
当時、ゲーテはちょうど大学を卒業し、故郷フランクフルトで弁護士としてのキャリアをスタートさせたばかりの22歳。
さらに決定的なことに、ゲーテの叔父がこの事件の裁判官の一人たったため、ゲーテは弁護士という立場からも、裁判の生々しい供述書や記録を詳細に閲覧できる環境にあった。
裁判でズザンナは容疑を認め、涙ながらに反省の色を示した。
しかし、当時の法は厳格であり、結果は「斬首による死刑」
1772年1月14日、フランクフルトの中心部にある広場で、彼女の公開処刑が執行された。
故郷の町がこの血生臭い事件と冷酷な法執行に揺れる様子を、ゲーテは凄まじい衝撃と倫理的な憤りを持って見つめていた。
『ファウスト』への投影と社会的メッセージ
この事件の直後、ゲーテは激しい衝動に突き動かされるように『ファウスト』の執筆に取りかかりる。
主人公の恋人の名前「マルガレーテ」は、ズザンナのミドルネームからそのまま取られていることがわかる。
作中でマルガレーテを狂気に追い詰めたのは、悪魔メフィストフェレスの誘惑だけでなく、「未婚の母」を犯罪者として冷酷に村八分にする周囲の世間や教会、そして厳格すぎる法律だった。
ゲーテは彼女を悪人ではなく、社会の犠牲者として描いたといえる。
『ファウスト』第一部のラスト
狂気の中で死を待つマルガレーテは悪魔の力を得たファウストをしきりに拒み
『神様 お裁きください!
この身をお任せいたしました。
私はあなたのものでございます。
神様 お救いくださいまし」
と天に身を委ねる。
悪魔が「この女は裁かれた!」と叫ぶと、天上の神から「救われたのだ!」という声が響き渡る。
これは、現実の法で裁かれ救われなかったズザンナに対する、ゲーテなりの文学的な「救済」と祈りだったと言われている。
身勝手な男に捨てられ、社会の偏見に追い詰められて我が子を手にかけてしまった一人の女性。
若き弁護士ゲーテが目撃したその絶望が、世界文学の最高峰と呼ばれる傑作の、最も切ないヒロインを生み出す原動力となったのだ。
永遠にして女性的なるものへと聖化したマルガレーテ
マルガレーテの死後、壮大なストーリーが展開した後、
『時よ止まれ。お前は美しい』
という言葉を口にしたファウストは悪魔との賭けに負け、死を迎える。
契約どおり、今まさに、メフィストの手に落ちようとするファウストの魂。
その時、突然、響き渡る天使の合唱。
そして、天に召し上げられ、聖化したマルガレーテの祈りの声により、ファウストの魂は救済される。
天上の光を眩しがるファウストを優しく迎えるマルガレーテ。
そして、自らを
「全てを否定する霊」
と名乗ったメフィストフェレスも
「可愛い」
「愛らしい」
「楽しい」
という言葉を口にし、愛の炎で包まれ、昇華されていく。
メフィストの目的は敬虔な人間を、獣へと堕落させることだった。
「懺悔することなどないのに教会へ行く娘」
であったマルガレーテが未婚のまま妊娠し、嬰児殺しの罪で処刑されたこと。
それでメフィストは目的を果たしたかに見えた。
けれど、悪を経験したマルガレーテの魂は、より強固な善へと変容したのだった。
それは、何の疑いもなく、教会で手を合わせていた少女のそれよりも、遥かに透き通って揺るぎない善への純化である。
人間が悪を克服して善を得ること。
ここに「悪の救済」のストーリーを見ることができる。
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