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やすよ(冨田恭代)です!
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最近の本屋は、特殊な商品券でも使わない限り、容赦なくセルフレジの列へと誘導される。私はQUOカードを握りしめて数少ない有人レジに並んだのだ。

効率化のために導入されたはずのシステムが、店員、おじいさん、そして私の3人を完璧なストレスの渦に巻き込んでいった。

 

 

有人レジの私の前には、一冊の本を大切そうに持ったおじいさんが並んでいた。

支払い方法がどうやら現金だったらしく、スタッフの手によってすぐさま隣のセルフレジの画面の前へと通された。

店舗側の人件費削減、レジ誤差の防止、そして何より客の待ち時間の短縮。セルフレジが導入される目的は、どこまでも「効率化」のはずだ。しかし、私の目の前で繰り広げられた一連の出来事は、その目的とは真逆の、絵に描いたような「非効率化」の極みだった。

 

 

 

効率化という名の「非効率」が始まる場所

おじいさんは画面の前で、冷蔵庫の扉を勢いよく開けたものの、自分が一体何を取りに来たのかを秒で忘れて立ち尽くしている人のように、完全にフリーズしてしまった。有人レジのスタッフは一人しかいない。その唯一の店員が、有人レジのポジションを離れ、おじいさんのセルフレジつきっきりになって操作を案内し始めた。

 

 

ここからが、お年寄りあるあるのフルコースだ。

おじいさんは案の定、全ての操作に手こずる。

まず、タッチパネルの「押す速度」という概念が存在していない。

本来なら、画面を0.2秒くらい「ポン」と軽く叩けば済む話だ。

しかし、おじいさんは指が液晶画面の奥深くに埋もれるのではないかと思うほどの力強さで、グーッと長く押し続ける。

機械からすれば「長押しされすぎて、どの命令を実行すればいいか分かりません」という状態になり、画面には無情にもエラー表示が出る。

反応しない画面を見て、おじいさん自身も「押しているのに動かないぞ」と不思議そうな顔をしてフリーズし、おじいさん自体がエラーを起こす。

 

 

さらに、ポイントカードを機械に読み込ませるスライド操作。

軽やかに「スッ」と一瞬で通せば機械は認識してくれる。

だが、おじいさんは慎重になりすぎるあまり、カメが歩くような超スローモーションの速度でカードを溝に滑らせていく。

当然、機械は速度が遅すぎて磁気が読み取れなくて、再びエラーを吐き出す。

おじいさんは「こんなにしっかりと、心を込めてカードを読み込ませているのに、なぜだ」という顔をして、またしてもおじいさん自体がエラーを起こす。

 

 

結局、ボタンの押し間違いやエラーの連発により、レジの操作は最初からやり直しになってしまった。

その間、有人レジの列に取り残された私は、ただその戦いを見守るしかない。

店員がつきっきりで案内しているため、私のQUOカードの決済は一歩も前に進まない。

あなたが有人レジに戻って私の会計をパパッと済ませてくれれば、私は10秒で店を出られる。

店員が自分でレジを打てば、おじいさんの会計だって1分もかからずに終わるはずだ。

それなのに、おじいさんが慣れない手つきで機械と格闘し、店員がそれを後ろから指示するせいで、気づけば5分以上の時間が経過していた。

 

 

店員の顔を見れば、言葉には出さないものの、明らかに表情が引きつっていてイライラしているのが伝わってくる。おじいさんも、目の前の画面を構うことに精一杯で焦りと不安の状態。 shadow そして、ただ待ちぼうけを食らっている私も、じわじわとイライラが募っていく。誰も悪いことをしていないのに、そこにいる全員が、感じなくてもいい強烈なストレスをセルフサービスで味わっているという、この上なく理不尽な空間が完成していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

携帯ショップ店員時代に見た、テクノロジーと人間の衝突

画面の前でフリーズするおじいさんの姿を見て、世線の多くの人は「お年寄りは機械に疎くて気の毒だな」と同情するか、あるいは「早くしてくれよ」と心の中でイラつくかのどちらかだろう。

しかし、私の心の中に湧き上がったイライラは、もう少し複雑で、もっと深い場所にある根深いものだった。

なぜなら私が携帯ショップ店員をしていた頃、これと全く同じ「テクノロジーの進化と、人間の退化の衝突事故」を、それこそ毎日浴びるように目撃してきたからだ。

 

 

当時の携帯ショップには、もはや「あなた、うちの従業員でしたっけ?」とタイムカードを切りたくなるレベルの出勤率で、ほぼ毎日客として来店する年寄りがいた。

何度スマートフォンの基本操作を伝えても、家に帰った途端、綺麗に忘れてしまう。

「お姉さん、これどうやるんだっけ」と申し訳なさそうに何度も聞いてくる可愛い人はまだ良い。

こちらが分かりやすいように、紙に大きく「ここを押す」と赤ペンで手順を書いて渡してあげる。おじいさんは宝物を見つけたかのように嬉しそうにそれを持って帰る。

だが、家に帰った瞬間、その紙に書かれた日本語が、エジプトの象形文字か何かに見えてしまうのか、書いた手順が分からなくなって、次の日にまた確認するためにお店に足を運ぶのだ。それはそれで、おじいさんの脳と体にとっては良い運動になっているのかもしれないが、教えるスタッフ側のエネルギーは確実にすり減っていく。

 

 

さらに厄介なのは、世の中の進化の仕組みについていけない自分自身の焦りとプライドを、そのままお店のスタッフへの怒りとしてぶつけてくる年寄りの存在だ。

むしろ、そっちの方が圧倒的に多かった。

「こんな訳の分からん、ややこしいもんを作りやがって!」カウンターを叩きながら怒鳴る彼らの言い分も、今なら少しだけ理解できるが、彼らが使いこなしてきたガラケーも、家の固定電話しか知らなかった時代から見れば、手のひらサイズの中に宇宙が広がっているような、訳の分からんややこしいものなはずだ。

社会はどんどん効率を求めて、新しいシステムを導入していく。

お年寄りにとってはついていきたいのは山々かもしれない。

けど、覚えたくても脳の仕様が追いつかない。

見れば分かると言われる画面の案内が、視界に入ってくる情報量が多すぎて処理できない。お年寄りに厳しい世の中だと言われれば確かにその通りだ。

 

 

誰も悪くない空間で、イライラが向かう先

本屋の店員が、おじいさんにイライラしてしまう気持ちは痛いほどよく分かる。

毎日毎日、同じような説明を繰り返し、自分の本来の業務が進まないもどかしさは、業務が終わった瞬間、毎日リセットされているようで、ちりつもで精神を削っていっている。

そして同時に、画面の前でエラーを起こしているおじいさんの、あの焦りと情けなさの混ざった気持ちも分かってしまう。

 

 

だからこそ、私のイライラは、一生懸命に生きているおじいさんにも、必死にマニュアルをこなしている店員にもぶつけることができず、完全に行き場をなくしていた。

誰のことも嫌いになれないのに、非常にイライラする。この感情のやり場を探した結果たどり着いたこと。私が本当に怒りを爆発させていたのは、目の前の二人ではなく、現場にそんな融通の利かないルールを強いる、どこかの誰かが作ったマニュアルに対してだったのだ。

 

 

おそらくあの本屋には、セルフレジで対応できる決済は、お客様がどれだけ手こずろうとも、必ずお客様自身の手にやらせること。

有人レジは、セルフレジが使えない特殊な決済のみ対応せよ。

という、鉄のルールが存在していたのだろう。

そうとしか考えられないし、そうであって欲しい。

 

 

私もこれまで、なんでこんな無駄なことをしなければいけないの?と思うような、理不尽な社内ルールに、歯を食いしばって従って働いてきたからよく分かる。

組織という大きな乗り物になると、たった一人の店員が、親切心でルールを崩して代わりにレジを打ってしまった瞬間、全体の統制が取れなくなったり、別の客から「前、あの店員さんはやってくれたのに、なぜあなたはやってくれないんだ」とクレームが入ったりするリスクがある。

だから、融通が利かないと分かっていても、現場はマニュアルのロボットになるしかないのだ。

 

 

 

 

 

「手段の目的化」という、SNS発信にも潜む罠

しかし、ここで一度、大きな声を出して本来の目的を思い出す必要がある。

セルフレジの目的は、何度も言うが「効率化」だ。

手段であるはずの、セルフレジを使わせることが、目的になってしまい、結果として店全体の時間がストップし、全員がストレスを抱える、とんでもない非効率化が起きているのだとしたら、そのルールは本末転倒の極みである。

 

 

そしてこの、いつの間にか手段がゴールにすり替わってしまう現象は、何も本屋の融通の利かないマニュアルに限った話ではない。

実は、私たちが日々スマートフォンを握りしめて向き合っている、SNSの発信なんかでも全く同じ罠が仕掛けられている。

 

 

発信側の視点の話になるが、最初は誰だって、「この伝えたい思いを届けたい」「画面の向こうにいるあの人を救いたい、幸せにしたい」という、純粋な目的を持って発信を始めるはずだ。

なのに、毎日画面を見つめているうちに、いつの間にかフォロワーの数や再生回数という「数字」ばかりを血眼になって追いかけるようになってしまう。

数字はただの目安や、自分の現在地を知るための道具に過ぎない。

それなのに、いつの間にか数字を稼ぐこと自体がゴールになってしまうのだ。

どうして今これを発信しているのか、自分は一体何を伝えるべきなのかという原点を、人間は驚くほど簡単に忘れてしまう生き物だ。

 

 

もちろん、多くの人に自分の言葉を届けることは大事だ。

けれど、自分が本当に伝えたいこと、本当に自分の言葉を必要としてくれている人に伝わらなければ、どれだけ大きな数字を出せたとしても、それは中身がスカスカの、ただの空っぽな数字でしかない。

世間に「ウケるため」だけを狙って、自分の本音を曲げて作ったコンテンツが奇跡的にバズったとしても、今度はそのウケる自分をずっと演じ続けなければならなくなる。

それは自分で自分の首を絞め、自由になるために始めた発信で、自分自身を不自由な場所に閉じ込めるようなものだ。

 

 

 

 

 

誰かのためではなく、まずは自分の心を救うために

そもそも、私がこうして文章を書いている目的の一つは、自分の内側の言葉にならなかった感情を、整理するためでもある。

その瞬間、その時にしか感じられなかった生々しい感覚を、消えて忘れてしまう前に残しておきたいのだ。

そして、あの本屋のセルフレジのように、どうしてもその場で消化しきれなかった理不尽な出来事も、こうやって面白おかしく書いて文章として世の中に放り投げておくと、不思議と自分の心がすっきりと癒やされていく。未来の自分が読み返した時、過去の自分の発信内容に救われたことは何度もあった。

私にとってこの発信は、一種の心のセラピーのようなものなのかもしれない。

 

 

ありがたいことに、そんな私の極私的なセラピーを読んだ人たちから、「恭代さんが私の言いたかったことを全部代弁して言語化してくれたから、胸がすっと軽くなりました」と言ってもらえることがある。

あるいは、私の見苦しいほどの醜い感情を隠さずに曝け出すことによって、「あ、私もこんなに酷いと思っていたことを、感じていてもいいんだ」と、自分を責めるのをやめて許せるようになったと言ってくれる人たちまでいる。

それなのに、もしここで私が色気を出して、「これだけ多くの人に読まれているんだから、これからは世間にとって良いことや、みんなの見本になるような立派な正論を発信しなきゃいけない」なんて思い始めたら、私の世界は途端に窮屈で息苦しいものになるだろう。

自分のために、自分の心を救うために始めたはずの表現が、いつの間にか自分を苦しめる新しい縛りになってしまっては、それこそ本末転倒だ。

 

 

 

 

 

綺麗事では片付けない、私なりの表現の歩み

もし私があの書店の店長であれば、そんな融通の利かないルールを作った本部の人間に対して、怒りの往復ビンタを食らわせたくなるくらい会社を恨んでいただろう。

じいさんの気持ちも、店員の気持ちも、組織のジレンマも全部分かる。

だけど、だからといって「仕方のないことだよね、みんな頑張っている良いお店だ」なんて、物分かりの良い綺麗事で片付ける気は一切起きない。

ただただ、あの空間は不快だった。

だから私はレジで並んでいる時、「もうこの本屋には二度と来ないだろうな」と思った。

冷たい人間だと思われるかもしれないが、自分の平穏な心を守るためには、システムエラーを起こしている理不尽な環境から、自分の意思でそっと距離を置くことが、一番手っ取り早い解決策なのだ。

 

 

人間が作ったシステムに、人間が振り回されて窒息していく。

そんな、少しだけやるせない社会を、私は本屋の有人レジという場所でじっくりと観察した。

次に本屋へ行くときは、おじいさんの指が画面にめり込む瞬間を目撃する前に、並ばなくてもいい状況を伺って、スマートに買い物を終わらせようと思う。

進化し続ける社会の波にのまれず、乗りこなしていきたい。私は私のやり方で、目の前のイライラした出来事や、言葉にできない感情を面白がりながら、表現を楽しんでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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