テストで良い点を取って、
少しだけ得意な気持ちで家に帰る。
食卓で父に答案を見せると、
返ってくる言葉はいつも決まっていました。
「そんなの、当たり前だ」
私の父は、人を褒めるということを、
ほとんどしない人でした。
どんなに頑張っても、
どんなに良い結果を出しても、
それが父の基準を超えない限り、
認められることはありませんでした。
「できて当たり前」
「やって当たり前」
その言葉を聞くたびに、
私の小さな努力や達成感は、
行き場をなくしていくような感覚でした。
頑張っても、
頑張らなくても同じ。
私がやっていることは、
特別なことではなく、
ただの「当たり前」なのだと。
だから、いつしか私は、
自分のことを
「すごい」と思うことを
やめてしまいました。
何かを達成しても、
これは誰にでもできる
「当たり前」のことなのだろう、と。
自分の中に、
特別な価値を見出すことを、
諦めていたのかもしれません。
この経験は、
私の自己肯定感を、
間違いなく歪ませたと思います。
けれど、不思議なことに、
この「褒められなかった記憶」が、
今の私の仕事の、
一番の武器になっているのです。
プロフィール制作や
ショート動画のご依頼で、
お客さんのヒアリングをしていると、
多くの方がこう言います。
「私には、特別な経験なんて
何もないんです」
「当たり前のことしか、
やってきていないので」
その言葉を聞くたび、
私は心の中で「見つけた」と思います。
父が私の努力に
「当たり前」というレッテルを貼ったように、
多くの人は、
自分自身の価値に対して、
最も厳しい鑑定士になっているのです。
自分にとっては
息を吸うようにできてしまうこと。
何の苦労もなく、
無意識にやってのけてしまうこと。
それらは、「当たり前」すぎて、
本人にとっては価値があるとは
到底思えない。
でも、私の目には、
それが全く違うものとして映ります。
脳出血で半身麻痺になった、
ずーみーと出会った時のことも。
彼にとって、
不自由な体で日常生活を送ることは、
辛いけれど「当たり前」の日々でした。
SNSで発信はしていたけれど、
その思いは、
なかなか人に届いていませんでした。
けど、彼の話を聞くうちに、
その「当たり前」の日常にこそ、
物語が詰まっていることに気づいたのです。
例えば、彼が毎日必死にリハビリをすること。
自分で目標を決めて、
コツコツ取り組んでいくこと。
それは彼にとって「当たり前の努力」でした。
でも、同じように苦しんでいる人にとっては
「希望の光」になる。
彼が、仲間と気兼ねなく話せる場所を
全国に作りたいと願うこと。
ホノルルマラソンに出場すると決めること。
夢を持つこと、目標を立てること、
そう望むことは彼にとって
「当たり前」のことでした。
でも、それは、孤独を感じている人にとっては
「救いの場所」になる。
その「当たり前」の中にある、
小さな工夫や、絶望と希望の間で揺れ動く
生々しい感情こそが、人の心を打ち、
多くの共感を呼ぶ「物語」になったのです。
結果として、
彼のアカウントのフォロワーは、
1200人から2.6万人にまで増えました。
私は、父に褒められなかったからこそ、
人の「当たり前」を、
そのまま受け取ることができません。
その言葉の裏に隠された、
本人が見過ごしている、
並外れた才能や、
血の滲むような努力、
人間らしさを、
どうしても探してしまうのです。
もし、ご自身の経歴やスキルに、
特別な価値を見出せないでいるとしたら。
それは、自身にとっての
「褒めてくれない親」に
なっているだけなのかもしれません。
特別な経験や、
輝かしい実績は必要ありません。
「こんなこと、当たり前だよ」と、
少しだけ照れくさそうに
話してくれること。
そこにこそ、その人だけの、
誰も真似できない「すごい価値」が
眠っているのです。
ここまで読んでくださり、
本当にありがとうございました。
このアメブロでは、
私の人生で起きた出来事や、
そこから得た気づきを、
一本の「物語」として、で
きるだけ誠実に綴っています。
でも、実は、
この物語には「裏側」があります。
それは、
「バイト暮らしを、本当に抜け出せるのか?」
という、私の、あまりにもリアルで、
格好悪い、現在進行形の挑戦の記録です。
メルマガでは、
この、うまくいかないことも、
情けない葛藤も、お金の不安も、
すべてを隠さずに曝け出す
「人生のリアリティ・ショー」
のような配信をしています。
公の場には、どうしても書けない、
私の、どうしようもない本音。
もし、この、
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