当初は入手するつもりがなかった。大河ドラマを毎年、見ている訳ではないので特に思い入れなどなかったが、この間、徳川家広氏がテレビ出演を果たし、また特にベトナム人の奥さんには良くしてもらっているので暫く経ってから購入することにしたのだ。
これまでも見聞きしてきたように徳川家康は駿河の今川家、尾張の織田家、甲斐の武田家という戦国時代の真っ只中で生まれた。
徳川家康の誤算というのは最初に結論を言ってしまうと主君の今川氏真の死のほか、やはり本能寺の変による織田信長の自害であろう。この織田信長が生きていたら、その後はどうなっていたか。恐らく、まったく別の歴史があったに違いない。少なくとも天皇はいなかっただろうね。現代の中高年は若い人ほど皇室に親近感が湧かないと思い込んでいる。むしろ逆。まさに戦国時代だ。
天正地震によって徳川家康は命を取り留める。反対に豊臣秀吉から見ると、どんなに大変であっても戦国武将として徳川家康を殺すべきだった。そうなれば江戸時代はなかったはず。天下は恐らく大阪だったかもしれない。今現在の首都も大阪だったかもね。
徳川家康が江戸幕府を開くと、さっそく外交を進めた。やはり徳川家広氏が述べていたように、ここまで革新的な人は他にいないだろうね。西洋はオランダやポルトガルなどの他にアジアでは中国などとも積極的に外交を進めて貿易を行った。実は徳川家康は保守的ではない。家を残しつつ改易を行い、人質政策も進めた。人殺しのイメージしかない戦国武将だが、それでも徳川家康は、まだ生易しい方なのだ。なぜなら敵はいなくなっても家を残している。ここまでが一つのターニングポイントとなっているのだ。
そして二代目の徳川秀忠と三代目の徳川家光に代替わりする。孫あたりまではきちんと徳川家康の方針に従って政治を行っていたのだが、そこから四代目の徳川家綱に代替わりすると安心したのか、ここで改易と人質政策を緩めてしまう。こういったあたりも時代の変化が見て取れる。変わって来たな~と思われる時は何も近年、今現在に限ったことではない。そうなると幕府は怖くなくなってしまう。慌てて元に戻したが後の祭りだった。時代に合わせて緩めてしまったことが反対に悪い方向へ影響したパターン。
このことが13代目の徳川家定まで続く。米将軍である八代目の徳川吉宗は改革派で目安箱を取り入れたが、ここも変化の兆しだ。
そして14代目の徳川家茂からも変化が見られた。紀州の生まれだから、やはり得宗家のようにはいかない。京都は大荒れとなる。
つまり江戸にいた頃は大名も家族が一緒だった。そこから四代目になって家族の帰国が認められるように。また徳川家康にブレーンがいたような優秀な官僚もいなくなっていった。かつて鎌倉幕府では源頼朝に大江広元がいたように傍に置いて安心できる人物もいないので時代が下って幕末になると民衆の反乱を防ぐのに苦労したため、そこで出てくるのが新選組だった。新選組にアウトソーシングしておけば京都だけは平和になると思っていたが、しかし地方の外様大名ら子孫が生き残っていた。そういった人達が明治維新を起こすことになる。江戸幕府がなくなった理由って、そういうことね、と納得できる。やはり思想の問題が起こした。
自分は徳川の家臣だと思えば大名として、ついて来る。しかし、ことは武士だけに収まらない。農民や商人の方が遥かに怖い存在だということは武士だけが刀を差していることで、よく分かる。一揆を起こされたらたまらないのだが、このように時代が下ると一揆や反乱は頻発した。なぜか百姓を中心に反乱を起こす。百姓は「ひゃくのかばね」で天皇の家臣だと自称しているに過ぎないのだが、こうやって自称は増えていった。現代人は履き違えた個人主義という名の自己主張だが、この時は自称が多かったのだ。
源平藤橘と言って天皇から貰う4つの苗字が存在していて、たまにウチは源氏の子孫ですよって、おかしなことを言う人がいるけど実際には、この中で藤原氏が例えば九条頼経から続く「九条家」や「近衛家」などのように苗字は変わっていて、このように調べもせず平然と子孫だと言い張るのは徳川家康と同じだろう。そもそも徳川家康が源氏の子孫か本当は分かっていない。新田氏から得川に変化して徳川となったというのは後付けだったりもする。徳川家の先祖は松平家であり、どこのどいつか分からないのが実情であろう。だいたい源平藤橘は姓であって苗字ではない。だから今現在とは、まったく異なっている。人は変化するからね。
そうなると日本人がどういう存在か見えてくる。戦後も、やはり天皇の家臣であることは拭えなかった。特に太平洋戦争で小学校の校長が児童に対して「死んで帰ってこい」と言うなら、なおさらだろう。また家制度も続いていて、だから死んだ祖先は仏壇に納め位牌に戒名を書く。本来の仏教は無墓制でシンボル的なモノは少なめ。今現在でも東南アジアや南アジアは、そういうところも少なくない。だから遺体を燃やすと野ざらし。仏教本来の教義である無に帰るだけ。ところが日本では、きちんと仏壇に納めて位牌に戒名を書いてもらう。武士でも上から順に「院居士」「居士」「信士」となる。これ実は我が家でも家制度の論争になったことがある。それで我が家は「院居士」で確かに百万円単位を払ったから「振り込め詐欺の手口と一緒じゃねーか!」とツッコミの一つも入れたくもなったが、これにて一件落着。我が家においては個人として革新的であっても家制度としては保守的なのだ。
本来の仏教は金銭で解決する教義ではない。だからアジアは貧乏な国が多かった。ところが日本では少し違っていて、というより付け加えると中国や朝鮮半島などの儒教を上手く取り入れながら墓石を建て祀っている。つまり日本では、すでに年上を敬っているのだ。年上を敬うとは年長者が偉そうな態度を取ることではない。それでも祖父母の「院居士」には愛着が湧いて来て、そこで関東なら円覚寺や浄智寺や建長寺や明月院などを巡ってみる。明月院というのは正確には寺号ではなく「院号」のこと。このことが鎌倉を周ってみると、よく分かる。他には「安養院」や「英勝院」なども同じ。高級な戒名の分だけ、やはり金銭的にかかってしまうのは致し方ないが、だからこそ昔の人は「坊主丸儲け」と、よく言ったもんだな~と納得する。磯田道史先生も述べているように釈迦が怒ってしまうかもね。それは釈迦が広めた本来の教義ではないと。ただし、この経験が自分の人生に影響してくる。
法要の時に僧侶が我が家の墓石を見るなり「あっ!これは菅原道真の梅鉢ですね!」と言ってきた。やはり過去に何かあるようだと思って福岡市と太宰府市、特に天神から福岡城までの周辺と太宰府天満宮の周辺の地図を調べたことがある。一人だと怪しいから福岡の同級生の従姉がついてきてくれて我が家のルーツを探ったりする。家がなくて一時期、佐賀県に籠ったりするのは過去の時代の変化として一時期、今現在は片づけてしまったから、もう関係ない。やはり我が家は福岡市がルーツ。武家屋敷にて大江広元のような仕事をしていたことまで突き止める。恐らく野蛮な戦国武将ではない。特に九州は、よく知っていて熊本県の熊本城、大分県の高崎山自然動物園と別府温泉と血の池地獄、長崎県のハウステンボスとグラバー園と大浦天主堂には行っていた。文明堂総本店でカステラを買って帰る。好きでない人は興味がないかもしれないけど長崎カステラって、チョコレート、オレンジ、抹茶まであることが意外と知られていない。チョコレートカステラとオレンジカステラを買って帰る。文明堂総本店は美味しいのだ。
みんな知っていると言って「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつはブンメイドウ」って運動会の徒競走で流れる音楽の中でも最強と言われる「天国と地獄」のメロディーに乗るぐらいしか、だいたい知識ってないんだよね。自分は知識があると思い込んでいる人が多い。あの「でんでらりゅうば~でてくるばってん」を聞いたことのある人って長崎県民と長崎に行ったことがある人ぐらいじゃないかな。方言って知ってるつもりでも、しっかり聞くと関東の人は意外と分からない。まして最後の「こ~んこん」ってキツネが鳴いてる訳でも雪や霰が降ってる訳でもない。ここでの「こんこん」は「来ない来ない」って意味だから。何でか分からないけど自分の知識が豊富だと思い込んでいる。私が関東で知ってるんだったら訳してみろって言って、それで実際には長崎弁が外国語にしか聞こえないほど分からないって答えた人もいたんだからね。こういう思い込みって日本人には割と昔からある。
一見、関係なさそうでも、こういった歴史を捉えて「自分の家がスゴイ」から「自分スゴイ」に変化してしまっているところも、またアメリカの個人主義に飛びついた負の面だろう。磯田道史先生が著書で述べている通り、やはり日本は特殊で間違いを犯すと証拠隠滅してきれいさっぱり切り替わるようだ。天皇万歳からマッカーサー万歳に真逆に切り替わってしまう。磯田道史先生は批判している訳ではないと言うけど、それでも戦争で死んだ子供たちは、やりきれないと言う。戦後は個人主義と言いながらも、その戦争責任の追及を個人に特定出来ていない。主張するところも、ほとんど変化していないね。本来のキリスト教の個人主義は神があってこそだというのにね。自己主張することが個人主義ではない。では、これからどうすればいいのかは自分達で考えよう。
【ニューソース】


































































