「壱与様…」
綾人は、はざかけをする壱与を見つけた。
「なんて美しいんだろう…」
綾人は壱与の姿に見とれた。
「お主…また来たのか…」
いつの間にか…
足下に、小犬の嵐が座っていた。
「これは、嵐様…」
綾人は嵐をそう呼んだ。
「御前様の伝言をお伝えに参りました…」
「伝言?」
「それは、どうでもよい…」
「ところでだな…」
綾人に向かって嵐が言う。
「お主の屋敷には、美味いものはあるのか?」
「えっ、あの、美味いものと言いますのは…?」
それを聞いた綾人が戸惑っている。
「お主は馬鹿か?」
「美味いものと言えば、食い物に決まっておろうが…」
「あっ、そういう事でしたか…」
「それでしたら、大丈夫です…」
綾人が嵐に答えた。
「本当か?」
「はい、沢山あります!」
「そうか、そうか!」
綾人の答えを聞いた嵐が立ち上がった。
「これだけは言っておく…」
「食い物のないところには俺は行かぬ…」
嵐がそう言って、綾人に尻を向けた。
「そのようにお伝えしておきます…」
「それと…」
「壱与にもし何かあれば、俺は許さぬ…」
「覚えておけ…」
そう言い残して、嵐はその場を去って行った。
「嵐様はああ言いながら…」
「結局…壱与様を心配しているんだ…」
綾人は嵐の心を感じながら、壱与の元に向かった。
「壱与様、お忙しいところ申し訳ありません…」
「あ、綾人様…」
壱与が笑顔で振り向いた。
「あっ…」
自分にだけ向けられた笑顔。
綾人は一瞬で身体が火照った。
「あっ、あのう…」
言うべき事を忘れてしまう。
「どうでしたか?」
結局、壱与に助け船を出された。
「そ、その御前様が喜んでおられました…」
「いつでもいいから…」
「来て頂けるなら…」
「そうおっしゃってました…」
綾人は、この日の仕事をこれで終えた。
「しばらくは、稲刈りがあるから忙しいの…」
「これが終わってから…」
「そうなると思う…」
壱与が綾人に言った。
「壱与様のご都合で構いません…」
「御前様にはそう伝えておきます…」
綾人がそう言って壱与を見た。
「綾人様…」
壱与が笑っている。
全てが見抜かれている…
綾人はそう感じ、反射的に目を伏せた。
「私達には、お気遣いなく…」
「ここにいる人達は、みんなそう思っている…」
壱与が稲刈りをする村人を見ている。
「ここにいる人達…」
綾人は働く村人の姿に、息を呑んだ。
「ああ…」
「なんと…美しいのだ…」
壱与の一言が、綾人の意識に変化を与えた。
今まで存在していたが、気付かなかったもの…
あるものとないもの…
あったのに気付かなかったもの…
見たことのない世界…
今それが、目の前にあった。
「綾人様みたいな方が…」
「貴族の世界にもっといたら…」
「この国も変わるかも知れない…」
壱与は村人を見ながらそう言った。
「壱与様…」
村人を見つめる壱与の瞳。
綾人が、その耀きに心を奪われた。
「真魚ももうすぐ動き出す…」
「その時は…もうすぐ…」
壱与が見ている世界。
そこに何があるのか…
綾人には想像がつかない。
だが、綾人は気付いてしまった。
こんなに近くにいるのに、果てしなく遠い。
壱与との本当の距離…
綾人にとっては…
決して埋まるはずのない距離が…
目の前にあった。
次回へ続く…
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