落ち葉の絨毯が境内を覆い尽くす神社(久佐々神社) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
令和元年11月30日のことです)

野間神社を後にして、最後に県道54号線沿いにあるこちらに寄りました
久佐々(くささ)神社
住所・大阪府豊能郡能勢町宿野270
式内社
御祭神 賀茂別雷神(かものわけいかずちのかみ)
駐車場・無料(上の画像の右側くらいになります)

解説

 当社は、和銅6(713)年に創建されたと伝えられる「延喜式」内の神社である。「延喜式神名帳」能勢郡の条に「久佐々神社」と見え、他に「久佐々大明神」、「賀茂久佐々大明神」、「宿野大明神」、「草々(くさま)明神」など、多くの呼び名があるが、これは往古(おうこ)より、広い地域まで知られた「大宮」であることに起因するのであろう。
 しかし当初の社名について、「日本書紀」雄略天皇17年3月2日の条に、
 「詔 土師連等 使 進 応 盛 朝夕 御膳 清器 者、於 是土師連祖
吾笥、仍 進 摂津国来狭狭村…中略…私民部、名 日 贄土師部」とある。
 これは、「天皇が朝夕の食事に使われる食器を、献納する詔(みことのり)がくだり、土師連(はじのむらじ)の祖である吾笥(あけ)が、摂津国来狭狭(くささ)村などに居住している部民を、贄土師部(にえのはしべ・土器を作る職人として朝廷に献上した」というのである。文中の「来狭狭村」は当地に比定され、社名もこれに拠ると考えかれる。
 
 祭神は「加茂別雷神」のほか、末社の「大国主命(おおくにぬしのみこと」、「豊受比売命(とようけひめのみこと)」、「事代主尊(ことしろぬしのみこと)」、「宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)」、「応神天皇」と、明治40(1907)年合祀の神々となっている。主神の「加茂別雷神」については、大宝元(701)年の能勢郡の設置に伴い、能勢郡司となった神人為奈麻呂(みわひとのいなまろ)が、加茂氏とは同祖であることから、祭祀された可能性が大きいと思われる。また、当社の文書断簡に「祭神天穂日命(あめのほひのみこと)、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(806~809)奉斎ス」とあり、「天穂日命」は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は「天穂日命」が奉斎されていたように思われる。
 このように当社は、悠久の大化前代から土地を開いた祖神や先人を土産神として祀り、当初は社名・村名を同じくし、以後千有余年の星霜を重ねてきた。近世では宮寺として真言宗「寛学寺(かんがくじ)」があり、当寺の別当が代々寺社の祭事をつとめた。

 正面に拝殿、奥には春日造檜皮葺の本殿【安永9(1790)年8月1日再建】左側には末社や合祀社があり、右側にはきわめて希少な「長床」かあり、ありし日の奉納芝居の盛況を今に伝えている。境内には、昔も今も変わりない千古の老杉老檜がうっそうと茂り、少なくなった鎮守の森をここで見ることができる。春まだ浅いころ、当社境内に花を咲かせる「一華草(いっけそう・せつぶんそう)」は、珍奇な草花として帝に献上され、叡覧あって記録せられたと伝えられる。
(原文のまま)

一の鳥居

そこの参道が短いのですが、見頃に紅葉してましたラブ


しばし見惚れちゃいました( *´艸`)

花手水ならぬ落ち葉手水(笑)

境内も落ち葉の絨毯に!爆笑

本殿

境内社

狛犬


本殿

本殿を横から

本殿から振り返る

ちょうど夕日が射し込んで

ステンドグラスのように見えましたおねがい


こちらにも御朱印はあるようです
時間が遅かったので不在でした
というより、在中されているのと違うかもしれません
やはり田舎のため、ウチんとこらのように掛け持ちで神社を見ておられるので、電話したら来てくれるというようなパターンのようです(^^;

御朱印は頂けなくても、こういう景色が見れるのが田舎の神社のいいとこだなぁと改めて思った神社でした照れ
この日の散策はこれでお仕舞いです
次回からはこないだマンホールカードを貰いに行ったことになります
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ