前回からの続きです
(令和元年11月30日のことです)
地黄城跡の前の道を南下して行きます
郵便局の先の交差点を右折すると右手に鳥居があります
野間神社

住所・大阪府豊能郡能勢町地黄399
式内社 旧官幣小社
主祭神 饒速日命(にぎはやひのみこと)
相殿 栲幡比売命(たくはたひめのみこと)
自然神 鹿屋野比売命(かやのひめのみこと)
駐車場が分かりませんでした😅
解説

当社は、地黄(じおう)字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13(605)年9月、大和国布留宮(ふるみや)より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午(かのえうま・1054)年に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の分霊を布留道(ふるみち・布留大明神が当地へ遷座の時通った道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿祢」となっている。「饒速日命(にぎはやひのみこと)」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞(ばんきょ)していた野間の連(むらじ)は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域一帯は、物部氏の勢力下にあって、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿祢(のみのすくね)は、土器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿祢を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より土器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師(はじ)氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものといわれている。平安時代の承和年中(834~848)より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗(じおうみその)として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元(1037)年、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預(ごんのあずかり・奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573~1592)織田信澄(のぶずみ)、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16(1588)年より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となった。
天正19(1591)年9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合わせて1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。
以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658~1661)に拝殿・大鳥居を造立、元文元(1736)年には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。明治40(1907)年には、領内最寄りの神社九社が当社に合祀された。
祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭りには、近郷稀な「だんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りが鳥行われている。
平成15年3月 能勢町教育委員会
(原文のまま)
由緒

手水舎

境内の様子


本殿

忠魂碑

機雷?
本殿を横から

本殿の左側にこんな石が?

陰陽石信仰

古来より不変性を示す石を男性器女性器にみたて子孫繁栄を祈ってきました。
当社も発掘された石で総代様ご協力のもと庭園を造りました。
中央の石はイザナギイザナミ二神が国を作る時に使われた天沼矛(アメノヌボコ)にみたてています。
この頃はもう紅葉が済みかけてましたが、頃合いだと本殿横のイチョウが綺麗なんじゃないか⁉と思いました😄

次回はその場所のことになります
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ


