本日のお題:
沈黙の病棟と、金融政策の断頭台
### ——植田総裁が「不在」を選ぶとき、日本経済の運命は誰の手に委ねられるのか
今の日本経済を見ていると、時々、底の抜けた船に乗っているような錯覚に陥る。
6月10日、日銀の植田総裁が入院したというニュースが流れた。肝嚢胞感染症、2週間の入院。多くの人が「激務による過労か?」と噂する中で、市場には冷ややかな疑念が漂っている。「逃げたのか?」と。
だが、私はそうは思わない。
むしろ、これは非常に「日本的な」責任の取り方であり、同時に、この沈みゆく日本というシステムを延命させるための、極めて高度な「政治的儀式」ではないかと感じている。
不在という名の「無血開城」
7月15〜16日に控えた金融政策決定会合。もし、総裁という唯一の決定軸が不在のまま、8人の政策委員たちが「利上げ」という名の劇薬を断行したらどうなるだろうか。
想像してほしい。個人としての植田総裁という盾を外し、日銀という組織の「合議」という名のヴェールを被って政策を強行する。
これによって、責任は個人から組織へと霧散する。どれだけ世論が叩こうとも、誰を吊るし上げていいのかターゲットが定まらない。
これは卑怯な逃げではない。むしろ、後の政権がどれほど利下げを要求しても、「あれは総裁個人の判断ではなく、日銀という組織が、その時の経済情勢を冷静に分析して導き出した『必然』だった」という、最強の言い訳——いや、撤回不能な「楔」を打ち込む行為に他ならない。
泥を被る覚悟か、それともただの延命か
もちろん、この仮説が正しいとは限らない。
単に、日本経済がいよいよ利上げという「現実」に耐えられなくなり、その痛みに直面する瞬間から、トップが逃げ出しただけかもしれない。
もし16日の会合で「現状維持(先延ばし)」が選択されたなら、それはこの国が、あと少しだけ延命措置という名の麻酔を打ち続けて、静かに死を待つことを選んだというサインだ。
私は、海の上でリグの計器を眺めながら、日銀の発表を待つ。
もしここで利上げがなされれば、それは日本がまだ「死なないために、痛みを引き受ける覚悟」があることを証明することになる。
私たちがすべきこと
結局のところ、日銀が何を選択しようと、個人の資産は自分で守るしかない。
私は、自分の家族が住む家を確保し、現金をルピアやドルといった複数のエンジンに分散させ、国債という岩盤で守りを固めている。
日本がどんな選択をしようと、私のシステムは崩れない。
7月1日、また海に戻る。その時、この国の経済環境がどう変化していようと、私は私の家族を守るための指揮を執り続けるだけだ。
植田総裁の病室の窓から見えるのは、曇天か、それとも嵐の前の静けさか。
7月15日の夜、すべての答えが出る。その時、私たちはこの国が「正常な海」を取り戻そうとしているのか、それとも「終わりのない霧」の中へ消えていくのかを、その目で目撃することになるだろう。