わけあり家族の田舎暮らし#40 生徒は奴隷 | わけあり家族のお山の暮らし

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児童精神科閉鎖病棟入院歴のある長男と
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平日の昼間に投稿する

【なんで私たちが山奥に住んでいるのか?

 その謎を説明するためには

 私のとんでもない30数年の子育てを話さなきゃいかんので

 それをたらたら書いているブログ】

 

今日も記憶を遡り書いていきますグー

 

 

現在20年ほど前のことを書いています。

 

 

一覧はこちら下差し

 

 

 

今回は下差しこのブログの続きです。

 

 

 

 

次男は1年生になりました。

 

担任は私と同世代のお子さんのいる

よく笑う元気な女性の先生。

 

 

 

登校班の班長は長男でした。

娘も登校班の中にいます。

 

次男は学校まで私がランドセルを持って

一緒に登校班で歩いて行ったり

日によっては車で送ったり。

(1年生のうちは車で行く日が多かったです。)

 

体調によって遅刻して行ったり早退したり。

 

昇降口から一緒に入り

教室まで一緒に行く。

 

1年生の教室は1階だったので助かりました。

階段の登り降りが

最大に関節が痛い動きだったからです。

 

体育は見学。

 

 

初めからそのような登校形態だったので

授業の途中から教室に突然 次男が入ってきても

「おはよ〜」といって

クラスメイトたちはそのまま授業を続けていました。

 

 

次男のクラスには

目の非常に悪い生徒が一緒に入学しました。

(通常の目の悪さではなく視覚障害のある子です)

 

その子にも特別な配慮がされていました。

 

学校として

この生徒の受け入れのために

春休みの間に色々と校内に目印などがつき

 

普通の授業でも体育でも

その視覚障害の生徒も一緒に授業を受けられるように配慮がされていたり

装置が設けられたりしていたので

 

次男の変動する登校形態も

誰も何も言うことはありませんでした。

 

 

徐々に体力をつけ
学校にいる時間を伸ばす狙いでスタートしました。

 

 

帰りも毎回お迎えに行きました。

疲れ切ってるので帰りは車で迎えに行ってました。

 

 

この頃、学校の先生から

お母さんにも携帯を持ってもらいたいと

お願いされました。

 

何かあった時に

すぐに連絡が取れるようにと。

 

 

私が携帯電話を持つようになったきっかけは

先生との連絡のためでした。

 

 

 

 

少しずつ病気が良くなってきた次男。

 

夏には

医師からプールの許可が出ました。

 

しかし手足がすぐに冷えて回復できない状態になるので

(レイノー症状がが出やすかったので)

プール授業の時は付き添いとなりました。

 

ポットにお湯を入れていくつも持っていき

学校でバケツを借りる。

 

バケツと大きめのバスタオルを用意してプールサイドで待機。

 

 

次男が痛みを訴えてきたら

バケツにプールサイドの水道の水を入れ

そこにポットのお湯を入れ

お風呂くらいの温度にして

手足を入れて温めさせる。

体は大きなバスタオルで包む。

 

これを1時限の間に数回。

 

 

体育はできないけど

プールなら許可が出た次男。

 

担任にこれら全てをお願いすることは

他の生徒もいるので難しい。

 

そこで考えた策でした。

 

先生も

「お母さんが来てやってくださるなら構わないですよ。

 それならみんなと一緒に楽しめますもんね」と。

 

そんな感じで

私が小学校を行ったり来たりする形で

1年生を過ごしました。

 

 

 

 

 

娘は持ち上がりの先生ではなく

田舎の小学校にしては珍しい

体育会系の私と同世代の男性の先生が担任になりました。

 

若い男性だからなのか

爽やかな雰囲気だからなのか

父兄からも人気の高い先生でした。

 

しかしこの先生、

実は女子の扱いがあまり上手ではありませんでした。

 

女子同士ドロドロし始める4年生。

 

男性の体育会系の先生としては

「はい、あやまりましょう。ごめんなさいは?」

というやりとりをすれば解決すると思っていたのか

 

「あやまって、はい仲直り。もうやらないんだよ」

女子同士でもこの解決策を使いました。

 

しかしこれが

むしろもっと陰湿に女子同士をドロドロしてしまいました魂

 

 

 

娘は

この女子のドロドロが非常に嫌で仕方ありませんでした。

 

さらに

女子たちが色気付いてきて

性的な話で盛り上がるのも非常にキライでした。

 

 

また色気付くことで

女子がいろんな匂いをつけてくるようになり

それで気分が悪くなることが増えました。

 

さらにこの頃から

香料入りの生活用品がどんどん開発されるようになり

学校での匂いが増えたことも

娘が体調を崩すきっかけになりました。

 

娘は

学校につくと家でしてきていたとしても

必ず腹痛と便意(下痢)をもようするようになり

トイレに走るようなりました。

 

学校で排便することで笑われることが増え

学校がつらくなり始めていました。

 

 

皮膚の炎症もひどくなっていきました。

 

ある日学校から帰ってくると

「◯ちゃんに、アトピーがうつる!って言われた」と

悲しそうに話しました。

 

子供とは残酷な生き物です。

 

 

 

 

 

長男のことでもブログに書いたのですが

 

 

地域の小学校は

毎年マラソン大会がある学校でした。

 

娘は3年生ぐらいから

この時期になると

顔が真っ赤に腫れて強烈な痒みができることが

年に何回か起こるようになりました。

 

目が開かないくらいに顔が真っ赤に腫れるんです。

そして強烈にかゆい。

 

それが首から上だけに出る。

髪の毛の淵に沿ってはっきり線ができるかのように腫れる。

呼吸もかなり苦しくなります。

 

いわゆるアナフィラキシーにかなり近い状態です。

 

 

 

この頃から障害児専門の病院の精神科のM先生ではなく

 

 

次男の病気を診てくれている小児科のN先生に

 

 

長男、娘、次男の発達障害についても

診ていただくようになっていました。

 

 

次男が発病したこともあり、

M先生のところへの通院が非常に大変になっていたからです。

 

そこで小児科医のN先生に相談し

次男の病気以外にも3人の発達障害の部分についても

一緒に診てもらうようにしてもらいました。

 

 

そこのともあり

娘の顔面が腫れた時にはすぐにN先生の診察にいき

薬をもらってきていました。

 

原因はどれも不明。

 

顔面の強烈な腫れは蕁麻疹及びアレルギー。

 

そして腕などの皮膚の炎症はアトピー。

 

腹痛や便意については過敏性腸症候群。

 

診断はそのような感じでした。

 

 

今となっては

上記の症状は

全て娘の難病が徐々に進行し始めていた証なのですが

それには誰も気がついていませんでした。

 

単純に感受性の強い子と。

検査では出ない何かのアレルギーなのだろうと。

 

そもそも娘の病気は

まだこの時 日本に情報が入ってきていなかったので

仕方なかったのかもしれません。

 

 

 

低学年のうちは学校に来たり来なかったりしていて

中学年になるとどこの女子のグループにも所属せず

口だけは達者だけど計算が全くできなくて

学校で頻繁に下痢していて

皮膚が炎症している…

 

娘はなんとなくクラスメイトとも

距離ができるようになりました。

 

そして

匂いに関してや記憶に関しても

明らかにみんなとは違っていることを

娘自身も自覚し疎外感を感じ始めていました。

 

 

この頃教室で女子同士のいじめが始まっていました。

 

 

 

 

 

長男の6年生の1年間は地獄への階段を

ひたすら降りていく状態でした。

 

担任は5年生の時のこのK先生が持ち上がりでした。

 

 

長男のターニングポイントと言っていいのか

ターニングポイントいう言葉は良い意味でしか使わないのか

その辺がよくわからないのですが

 

6年生のこの担任の時が

長男の人生が壊れる分岐点になりました。

 

 

 

人間は人をここまで壊すことができるのか…

 

なぜ長男を標的にしたのか…

 

 

良いものを良いように輝かせる教員もいる一方で

良いものを叩いて埋もれさそうとする教員もいる。

 

担任は王女様(王様)。

生徒は奴隷。

 

言うことを聞かない奴隷は徹底的に潰す。

 

 

長男はその潰された奴隷でした。