津波石とは津波によって海底や海岸の巨石が陸地に打ち上げられたものを言い、田野畑村羅賀地区や三陸町吉浜の津波石が知られている。 吉浜の津波石については下記の記事で紹介しているのでそちらもご覧下さい。
もう1つ、大船渡市赤崎町合足(あったり)地区にも明治29(1896)年6月15日(旧暦5月5日)に発生した三陸大津波で海岸から60m以上山側へ押し流された津波石がある。午後7時半頃三陸沖で発生した地震はマグニチュード8,2を記録、合足に隣接する綾里地区では38,2mの津波が到達している(合足地区の津波遡上高は約18m)。
これまで先送りになっていた合足の津波石だが、今回ホテルのチェックインまで時間があったのでこちらを見てみようと思い立ち現地へ向かった。大船渡市内から県道6号線(大船渡綾里三陸線)を綾里方面へ進み、ナビに従って途中から山道のような鬱蒼とした道を走る。周囲に民家などがなく、果たしてアプローチの道が分かるのだろうかと不安になっていたら大きな案内板があったので広くなった場所に車を停めた。
海岸へ向かう道は未舗装ながら道はしっかりしており、林業か漁業などで使う作業道のようだった。軽トラやジムニーなら通れるのかもしれないが車輌は進入禁止である。道を下っているとあちこちに消し炭が転がっており、あらためて周囲に目をやると立木の多くが黒焦げになっていた。今更ながら昨年の山林火災はこの辺りまで延焼したことに気付く。200m余り作業道?を下ると「合足の津波石→」と書かれた標識があったので道から外れて斜面を下りる。特に目印や目立った踏み跡もなかったので引き返す時迷わないようポイントをいくつかチェックして海岸へ進むとついに津波石を発見した。
こちらにも津波石と明記した柱が建てられているので間違えることはないと思う。周囲は針葉樹に囲まれているがこれは後に植林されたのだろう。二枚目写真の左上に見えるのが海岸になる。サイズは高さ1,1m、幅2,5m、奥行き1,3mとなっており、重さは約13tとされる(ちなみに吉浜の津波石は約32t)。打ち上げられた場所は海抜5mくらいあるという。
下の方を覗いてみるとフジツボか何かが付着した跡があり、この岩がもともと海底か海岸にあった証拠であろう。合足の津波石は津波の威力を伝えるものとして三陸ジオパーク(※1)の見所ポイント(ジオサイト)に登録されている。
〈明治29年の三陸大津波と合足〉
(綾里村の惨状を伝える「風俗画報」の挿し絵)
明治29年6月15日に三陸沖で発生した地震は揺れこそ小さかったものの、この時発生した津波は青森県から宮城県の広範囲に被害をもたらし、約22000人が犠牲になったとされている。
この時合足はどのような状況だったのか手持ちの書籍からいくつか分かったことを書いておきたい。もともと合足は13戸の小さな集落であったがこの津波で12戸が流出、1戸が半壊で残っただけという有り様だった。生存者はわずか11名、一命を取り留めたものの着るものも食べ物もない惨憺たる状況であった。その中に上野百合(由利?)之助という組長(自治会長的な立場か?)を務めた40代の男性がおり、6月24日、現地視察に訪れた政府局員一行たちに次のような証言をしている。
「あの晩、私はちょうど山腹にある知人の家に出かけて世間話をしておりました。その最中に突然大きな雷のような音がしたので何事だろうと思いすぐ表に出ました。そうしますと、山のような怒涛が吠え狂う獅子のように里を暴れ回り、既に一面が大海原になっていました。驚いて山に駆け上がりましたが途中まで来てから我が家はどうなったのだろうと振り返りました。しかし里は悉く水に没してもう家の影さえ見えません。これでは家族も里の人たちも皆奈落の底へ葬られてしまったであろう。それなのに自分1人が生き残ってもどうにもなるまい、逃げ延びて死に遅れるよりはいっそのこと自分も後を追って共に死んだ方がよい。馳せ下りて水に身を投げようと思いました。しかし…天運で助かっている人がいるかもしれない。生きて甲斐なく死んでも甲斐なき命ならば今暫くは永らえて里の人々の様子を訪ねよう、それからでも遅くはない。
そうこうしているうちに、誰か助けを求めているような声が聞こえましたので胸騒ぎしながら『おおーい!』とこれに応じました。やがて誰かが山を登って来ました。それは〇〇のΧΧで、全身が水に浸って寒い寒いと震えていました。幸いにも私は着物を何枚か重ね着していましたのでその一枚を脱いでかけてやり、また急いで枯れ木の枝を集めてこれに火を着けました。折しも風が吹いてきて、柴はパチパチと燃え上がり、これまで真っ暗で分からなかった二人の顔を照らしました。彼の顔は青ざめて生きた人間らしい色をしていませんでした。そのうちまたもや助けを求める声がしましたのでその方向を辿って行き、ようやく一人を見つけました。その顔を見ると思いがけず私の弟で、頭に傷を負い顔は血だらけになっていました。
長くて恐ろしい一夜が明けました。早朝集まって来たのは皆で十人余りでした。その中には四歳の幼児と十五歳の少年もいました。幼児の家は15人家族でしたが、皆死んでこの子一人だけ助かったのです。少年の方は波のために茅藪の中に埋まっていたのを助け出されました。
こうして十人余りが辛うじて命拾いしましたが、炊くべき米もなければ鍋釜もなく、もう皆飢え死にするより他ないと観念し、悲観に沈んでいました。その時駆けつけて下さったのがそちらの盛町(※現大船渡市盛)の巡査様でした。ここから盛までは鹿でも容易には越せない峠を越え、数十里を歩かねばなりません。それなのに昨日という今日、巡査様の顔を見るとは予想外のことでした。それがいち早く駆けつけられ、しかもこう申されました。『こら、皆気を落としてはならないぞ。米がないなら隣の赤崎村(※現大船渡市赤崎町)から運ばせよう。決してお前たちを餓死させないから心配するな。それよりは早く死体の捜索をしろ』と。その時の私たちの嬉しさ、まるで地獄で仏に会うような気持ちで、十人余の者はワッとばかりに地べたに泣き伏してしまいました。それから気を取り直して今日に至るまで、死体を探したり流木を拾い集めたりしています」
こうした生々しい証言は「明治29年という遠い昔の話」ではなく、先の東日本大震災のようなリアルな出来事という感覚にさせる。この上野由利之助の長男、段蔵は材木で頭部を砕かれ、24歳という若さで津波の犠牲となった。その後由利之助本人は家や部落を再建したが、昭和8年に発生した三陸大津波に巻き込まれ、82歳で亡くなったという。
※大船渡市三陸町綾里出身で歴史津波の検証や「津波てんでんこ」を提唱した故・山下文男氏(1924~2011)は父親が明治29年と昭和8年の大津波で被災、自身も昭和8年と東日本大震災の津波を経験している。この記事の内容も山下氏の書籍よりいくつか引用させて戴いた。
今回は合足の津波石の紹介だけ書くつもりだったか、結局吉浜の津波石のようにその時代背景などを深掘りすることになってしまった。本来ならこうした知識は現地を見る前に「予習」しておけば見方も変わっていたのだが…。
〈引用文献〉
・風俗画報 臨時増刊「大海嘯被害録」上~下巻
・哀史三陸大津波
山下文男著 河出書房出版
・津波の恐怖 ―三陸津波伝承録―
山下文男著 東北大学出版会
・三陸つなみ いまむかし
山川健著 イーピックス
(※1) 三陸ジオパーク
直訳すると「大地の公園」となる。地球の活動によるダイナミックな風景を楽しみ、地震や津波の痕跡を次世代に伝え、防災や減災に役立てるというコンセプトで2013年9月に制定された。三陸ブロックは八戸から気仙沼までの220km(海岸線の総延長は300km)が含まれる。






