長崎/天正遣欧少年使節 中浦ジュリアンの生誕地 | 星へ行こうよ

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長崎の大村湾を南下しています。

先ほど、七ツ釜の案内碑で見かけた、
天正遣欧少年使節
  “中浦ジュリアンの顕彰碑”へ
立ち寄ってみようと思います。


天正遣欧少年使節を知ったのは、伊東マンショの姿と思われる絵画がイタリアで見つかったことがきっかけでした。


出てきた案内板。

坂を降りると駐車場が。

車を置いて、向かってみると、


  ジュリアン顕彰碑→   

←中浦ジュリアン記念公園

どっちへ行ってもジュリアンなのだが、

どちらから向かおうかな。。


中浦ジュリアン出生の地


顕彰碑から伺います。


航海を記した地球の上に

帆船をイメージした石碑が立つ

中浦ジュリアン顕彰之碑

裏側も失礼します



では、先ほどのもう一つの道をたどり、

中浦ジュリアン記念公園へ向かいます




教会のような雰囲気




どなたもおらず、ドキドキ、、

自分でドアを開けてみました、、


中はカラフル✨

先ほどの顕彰碑と同じ、帆船をかたどったステンドグラスが明るく出迎えてくれてホッとしました。


四方の壁いっぱいに、中浦ジュリアンのあゆみを辿る壁画が広がっていた。



中浦ジュリアンは戦国領主小佐々氏の一族で、1568年(永禄11)中浦城主領主小佐々甚五郎純吉の子として生まれました。




中浦ジュリアンの生い立ち

日本が西洋に向かって初めて窓を開いた1563年頃、

中浦ジュリアンは肥前国中浦(今の西海町中浦)の小佐々善五郎純吉の子として、館(たち)と呼ばれたこの場所に生まれました。


幼い頃のジュリアンは中浦の海辺で仲間たちと遊ぶのが好きな元気で意志の強い少年でした。父甚五郎は「葛の峠(佐世保市の旧宮村)の合戦」で亡くなり、ジュリアンには母と二人の姉妹がいたと言われています。


有馬のセミナリョに入学したジュリアンは、1582年(天正10)、伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノとともに少年使節団の一員としてローマに派遣されました。



約8年半を経て日本に帰国したジュリアンは、厳しい迫害のなか、キリスト教の布教に努めましたが、1633年(寛永10)長崎西坂の地で穴吊りの刑を受け殉教しました。

刑場で「私が、ローマにいった中浦ジュリアン神父である」といったといわれています。



中浦ジュリアンは

14歳でヨーロッパへ渡り、

世界宗教の頂点であるローマ教皇に謁見。


帰国後は当時の日本の権力の頂点、

豊臣秀吉とも対面している。


しかもこれは「後世の評価」ではなく、

生きているうちに両方直接会っている。。😳



子孫の小佐々博士の手をとって

祝福するローマ法王ベネディクト16世

2008年10月1日 

バチカンのサンピエトロ大聖堂前にて一


一族の方がご存命のようです。



子孫が語る!私のご先祖様「中浦ジュリアン」より

中浦ジュリアンの叔父の子孫にあたる小佐々學さんは、2008年10月1日に時のローマ法王ベネディクト16世にバチカンで謁見。後日、中浦ジュリアンは「聖者」に次ぐ崇敬の対象である「福者」となった。


昔選ばれて南蛮国に行ってきた先祖がいる」と父親から聴かされて、この謎を解くために長年に亘って家系・先祖の史跡・文献を調査し出自不明とされていた中浦ジュリアンが謎の先祖だという驚くべき史実。


少年使節は、帰国に際しアラビア馬(体高150cm)獣医・蹄鉄工・調馬師などを連れて来て、他に活版印刷機と印刷技術・西洋楽器と演奏法・西洋絵画と技法を持ち帰って来た。これらの偉業は、日欧歴史の中でも大きな足跡を残している。


キリシタン禁制、弾圧、迫害の江戸時代になって少年使節4名の、その後はミゲルの棄教、マンショの病死、マルチノの海外追放、ジュリアンの殉教という4名とも波乱万丈の生涯を終えている。






中浦ジュリアンが学んだ学院の旧図書館から、

ルネサンス人文主義の中核をなす

アンジェロ・ポリツィアーノの古書が見つかっている。


天正遣欧少年使節「中浦ジュリアン」が学んだスペインのイエズス会聖エステバン学院の旧図館から発見された古書名:

アンジェロ・ボリツィアーノ書簡集』


1546年にフランスのリヨンで出版された古書。革製オリジナル・カバー付で保存状態は極めて良く、学院図館での450年以上におよぶ所蔵期間中に閲覧者による注記や書き込みが各所に認められる。また、この古書は大英図館なども所蔵する有名な本である。



ポリツィアーノはルネサンス期の重要人物で、メディチ家とのつながりがある。とな凝視(調べてみたら秘書だったらしい)



アンジェロ・ポリツィアーノ(Angelo Poliziano)とは?15世紀イタリア・ルネサンスを代表する人文主義者・古典学者・詩人。 メディチ家に庇護された知の中枢人物 • ギリシア語・ラテン語の原典研究を確立 • 中世的神学中心の学問から、「人文主義(ヒューマニズム)」への転換点にいた人。簡単に言うと、 近代ヨーロッパ知性の設計者側の人。




時代的にもふたりは会ってはいないが、ポリツィアーノの人文主義教育やラテン語劇、古代神話の扱い方はセミナリヨ(イエズス会の教育)を通じて天正遣欧使節の世代へと受け継がれ、中浦ジュリアンに確かに届いていた。


つまりジュリアンは、信仰だけでなく、

ルネサンス的人文主義の最前線の知に直接触れていた可能性が高い。

日本史的に見れば、これはかなり異常なことだ。


同時代の日本では、朱子学すらまだ本格的には流入しておらず、ラテン語やギリシア語を体系的に学ぶ環境も存在しない。

その時代に、一人の日本人少年が、ヨーロッパの中核をなすテキストに囲まれて学んでいた。

これは単に「珍しい出来事」ではない。



なんだか、『チ。』がチラついてもうた。。汗うさぎ

『チ。―地球の運動について―』



異なる文明の回路が、ほんの一瞬、

確かにつながっていたことの証拠であるな。




アンジェロ・ポリツィアーノの《オルフェオ物語》(1480年頃)は、ルネサンス期のキリスト教世界が、異教神話をキリスト教的に言い換えることなく、対等な表現として舞台に載せた初期の重要な作品の一つだという。


冥界から戻る途中で「振り返るな」と命じられる場面が、イザナギが黄泉の国から帰るときの場面と似ている。


似ているというより、死と生の境界に立つ物語は、どこかで同じ形をとるのかもしれない。。


 




オルフェオは殉教者ではなく、歌によって境界を越えようとして失敗した人間。


決して「弱さの失敗」ではなく、  

むしろ「人間であることの証」。

人間だったからこそ、  

愛に負けて、振り返った。

永遠の喪失を生んだと同時に、  

彼の歌を、永遠に哀しく、美しくした。


その後に中浦ジュリアンが信仰を捨てず殉教へと至ったことを思うと、越えようとした境界の重さがなおさら胸に迫る。


同時に「人間の愛おしさ」を感じる。


どちらも、境界の前に立った人間の姿。



あーだこーだえーから

自分の道をゆけ〜〜



400年も前に、

世界地図の上を渡り、

権力ではなく祈りと知で

二つの世界の中心に立った人。




この中で、マカオのセント・ポール寺院、そしてスペインのトレドには行ったことがある。

400年も前に彼らがそこを訪れたとき、彼らも、迎え入れた人々も、どれほど刺激に満ちていただろう。




ここで城主領主の息子として生まれ

2歳で父を戦で失い

12歳でセミナリヨ(神学校)へ

14歳で地球の半分を横断。

時代そのものを横断した人だった。




「場」をつくり、人の心を動かすことに長けていた秀吉は、言葉や芸能によって権力を築いた人でもあった。だからこそ、その感性は本来、オルフェウス的な世界と相性がよかったはずだ。


オルフェウスを神話として知らなくても、音楽や物語が一気に人の心をつかみ、世界を動かしてしまう力は、理屈より先に感じ取っていたのではないだろか。


世界を動かす力は、祝福であると同時に、為政者にとってはどこか怖いものでもあったかもしれない。


聚楽第で西洋音楽に感動し、何度もアンコールを求めた秀吉と、その後に禁教政策へと向かう秀吉とのあいだには、そんな感情の線が引かれている気がする。



では、私どもも次なる道を行こう!


さてさて、どこへ行こうかなぁ〜〜。



・・・宗像神社、、!?


すんごい近くじゃん!!笑ううさぎ


あっちだよ。

いざ、ゆけ〜〜!!


(つづく)




ジュリアンは案外、いたずらっ子かもしれん。


次回は宗像神社ですにっこり








日本の少年使節の旅を伝える資料を、海外サイトで見つけた

https://studylib.net/doc/18324641/the-japanese-mission-to-europe--1582



こちらの海外の資料によると、

4名は300人の応募の中から選ばれたという。


倍率75倍