「或る終焉」と、
「黙秘」
この2本の映画に、介護のシーンが出てきます。
人間は、5歳6歳にもなれば、自分で糞尿の始末をすることができるようになります。
その行為をヒトに見られることを恥ずかしく思うようになり、
その以後ずっと、自分の下の世話はヒトに見られることなく、
自分で自分の始末をして生きていきます。
そんな<あたりまえのこと>ができなくなっていくこと、
そこに介護する側、される側のツラさがあるのです。
「ある終焉」では、
末期症状やら化学療法の副作用やらで、
パンツを茶色に汚してしまう女性が描かれます。
その汚れたパンツのまま、シャワーを浴びて、
男性のナースにパンツを取り替えてもらうのです。
自分の娘にすら、世話をかけたくなくて
本当の病状を伝えられないような彼女にとって、
このような状態になってまで生きていなくてはならないことは
屈辱以外のなにものでななかったようです。
一方の「黙秘」という映画では、
富豪の未亡人が、同じく寝たきりになって、
おもらししてシーツを汚してしまうというシーンが出てきます。
こちらの映画では、介護する側もされる側もいいたい放題。
お互いに悪態をつきながら、
この生活を何年も続けています。
この未亡人もまた、老いて動かなくなった体に我慢ができません。
<老いさばらえたこの身体のまま、
この先まだ何年も生きていくなんて耐えられない>
という気持ちになっているのです。
人間なら、
人間としてのプライドがあるなら、
近しいヒトたちに迷惑をかけなくないと思い、
思い通りにならない身体で生きていくなんてまっぴらだと感じ
…てしまう、
そんなヒトはゴマンといます


そのゴマンといるヒトたちの中に、
私たちは、これから入っていくわけです。
どうする
私たち


私は人も猫も、介護したことがあります。
以前、↑こんな記事を書いたのですが、
人間と他の生き物との違いは、
<我が身の不幸を嘆く>
ことができるかどうかということだと思うのです。
(なんで、こんな身体になってまで
生きていかなくてはならないのか)
と嘆くことができるのは人間だけの特権です。
(こんなことなら、いっそ…)
という思考回路も、人間だけが持っているものです。
それがあるがゆえに、
介護する側もされる側もツラいのです


どんなに痛くたって、苦しくたって、
私はまだまだ死にたくない
もっともっと生きるんだ

っていうヒトには、最大限に力を注ぐことができて、
一方で、
「もうしんどいんです、これ以上は無理なんです」
というツラいヒトには、
痛みは最大限にとりながら、
医療がすすんでなければ死んでたってところ
(↑あぁ、ここの判断がものすごくむずかしいのでしょうね)で、
上手に死ねるような、
そんな<生き上手、死に上手>な世界になってくれたらいいなぁ


と、そんなことを思ったりしてしまいます。
介護の問題には、
これが正しいなんて答えはないと思うのです。
答えはないけど、考え続ける
少しでも、楽に柔らかく終焉を迎えることができますように
そう願ってやみません




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