自分たちの気に入らないものは,レッテル貼りを行って,水戸黄門の印籠のごとく,有無を言わせずに従わせることが横行しています。本日は,そのレッテル貼りの第8弾,”国際法違反&主権侵害"。普通の人であれば,”国際法や国家主権を尊重しますか”と聞かれれば、誰もが尊重しますと答えます。国際法を無視するなんて言ってる人は居ない。
しかし,”例外のない規則はない”とはよく言われるところです。大部分の日本人は,このフレーズが嫌いなようですが。国民のデモに発砲し自国民を虐殺する政府を野放しにしていいのかという課題に対しては,どうか? 常識的な考えをする人であれば,以下のように考えるでしょう。国家の第1の役割は,国民の生命&財産を守ることにあります。そこで,人道上の観点から,人間の生命権>国家主権とみなし(国家主権よりも,弾圧を受けている国民の生命権を優先し),武力介入してでも虐殺を止めるべきでないか。たとえ「国際法違反」であっても例外とすべきではないか。我々には,このような重たい課題を突きつけられていることが少なくありません。
武力介入してでも虐殺を止めようとした典型例が,米軍がベネゼラとイランに行ったdecapitation strike(斬首作戦)--敵対する国や組織の重要人物のみを狙って消去する作戦 --です。
ところが,左翼&リベラルは,誰も"国際法を尊重するとしか言えないことを逆手に取り,国際法違反と非難されることを甘受しつつ,虐殺を阻止するために武力介入したことを”国際法違反&主権侵害”とレッテル貼りを行って,全面的に,否定しにかかっています。
このような”国際法違反”のレッテル貼りを行うのは,大まかに2つのグループ。「反米有理,反米無罪」をモットとする連中と,共産主義者(以降”共匪”と記載)。このうち「反米有理,反米無罪」をモットーとする連中は,米国を敵視することは理にかったことである。米国を貶めるためには,何をしても許されるという行動をとる。今回の米軍のdecapitation strikeも気に入らないので,”国際法違反"。とレッテル貼りを行って,対米非難を行っているだけ。国民のデモに発砲し自国民を虐殺する政府を野放しにしていいのかという課題 には,全く無関心。ただ,米国を叩く名分(pertext)となればそれでよい。
反米有理,反米無罪」をモットとする連中は,まだ許せる。どうにも許せないのが”共匪”。歴史的に見れば,”共匪”どもは,自国民の虐殺を平気で行ってきた。典型例は,スターリン,毛沢東,ポトポル。この連中は,自分たちの主張こそ絶対的正義。その正義のためには何をしても許されると思い込んでいます。そのため,自国民の大量虐殺を平気で行います。”反革命”か何か知りませんが,自分たちの反対する自国民を虐殺することを,自分たちの統治権行使のように思い込んでいます。この観点からすると,人道上の観点などから,自国民の大量虐殺を行うことを非難されることが気に入らないのでしょう。そこで,武力介入してでも虐殺を止めようとすることを,”内政不干渉”,”国際法違反”とレッテル貼りを行って,非難します。したがって,私は,”共匪”どもが,”内政不干渉”,”国際法違反”と叫ぶと,自国民の大量虐殺を行おうとしていないかと,恐怖を覚えます。
このような左翼&リベラルによるレッテル貼りに対して有効な反論が,ラインホールト・ニーバ(Reihold Niebuhr)の考え方(キリスト教現実主義ともいいます)です。彼は,専制政治や武力侵攻に立ち向かうことを拒否する絶対的平和主義に意義を唱えました。彼は,当初,日本の9条信者のような絶対的平和主義を標榜していたが,1930年代末に,ナチのユダヤ人虐殺を知り対応を変えたされています。
国際政治における殆どの課題は,複数の規範が含まれており,その中にお互いに矛盾しているものが多く,簡単に判断を下すことができないという重たい課題を突きつけられていることが多い。前述の例,国民のデモに発砲し自国民を虐殺する政府を野放しにしていいのかという課題については,平和主義や国際法に反してでも,武力介入してでも虐殺を止めるべきでないかという意見が生じる。
ラインホールト・ニーバは,国際問題を判定する唯一の包括的規範はないと主張。そのうえで,関連する規範を,その課題について評価し,そこから共通する善を最も効果的に推進する活動を推奨した。つまり,これら相反する規範から,何を優先し,何を棄却するかという苦渋の決断を行わなければならないとしたのである
前述の国民のデモに発砲し自国民を虐殺する政府を野放しにしていいのかという例に関連する規範は,”国際法による国家主権の尊重”,”非暴による平和主義””人道上の観点からの人間の生命権の尊重”である。なお,個人的な意見としては,上記の場合,人間の生命権>国家主権とみなし(国家主権よりも,弾圧を受けている国民の生命権を優先し),武力介入してでも虐殺を止めるべきと考えています。
ニーバは,善を推進する活動にあたって,不正義や専制政治に立ち向かうことを拒否する道徳主義者や,いかなる理由があっても暴力回避に固執する平和主義者を否定した。さらに,何らの行動をとらないことを何よりも危険なことと見なした。これは,ニーバが安定した人道的な世界を維持する唯一の方法は,道徳的な正義による権力の抑制だとみなしていたからである。
何故,ニーバが物理的強制力をもった国家権力が必要と考えた理由は,キリスト教の伝統によるからです。つまり,はるか昔の聖アウグスティニス以来,神の国と地上の国とでは,根本的に異なっていると考えます。
神の国……愛と慈愛に満ちた神聖な世界
地上の国…情熱。欲,罪にまみれた世界
したがって,地上の国で正義に近いものを実現するには,必要悪としての物理的強制力をもった国家権力が必要であると考えたのはこのためです。これは,根本的に,
「あらゆる人間は罪にまみれ,神の栄光には届かない」
というパウロの主張に基づき,
「人間は不完全であるがゆえに,共同体において社会の秩序を維持する方法は,物理的強制力をともなった国家権力に頼らざるをえない」
と考えているからです。国際レベルの社会秩序については,主権国家間の紛争を解決する中央権威が存在しないので,国際秩序を追求する方法は,国家間の力の均衡を維持することになります。
上記のラインホールト・ニーバの考えは,今なお,米国の保守的なキリスト教徒に対し多大な影響を及ぼしています。特に,トランプ大統領本人をはじめとして,バンス副大統領,マルコ国務長官など敬虔なキリスト教徒が多いトランプ政権は,彼の考えに基づいて,信仰と国際政治に折り合いをつけているように見えます。
今日,左翼がある規範,例えば”国際法法違反”,”主権侵害”など自分たちの都合がいい規範のみを声高に叫び声高に叫び,自分たちの都合をごり押ししようとするとき,我々がは,”国際問題を判定する唯一の包括的規範はない”との前提の下で,主張されている規範と反する事実は,何かを常に意識する必要があります