極端なことを言えば,大部分の日本人のキリスト教の知見は,キリシタン,伴天連の時代からさほど変わっていません。大部分の日本人は,相変わらず1神教を諸悪の根元と決めつけ,多神教の1神教に対する優位性の主張しています。その根拠のない優位性による半知半解が広がっています。本日は,その第4段である”キリスト教は富を否定”している。
日本で広く敷衍している誤解に,”キリスト教は富を否定している”というのがあります。日本でこのような誤解が敷衍した理由は,断章断義。言葉を変えて言うと,マスゴミ得意の切り取り編集のためです。”キリスト教は富を否定している”しているとしてよく引用されるのが,以下の2か所
// マタイの福音書 19:23 & 24 //
「金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
// ルカによる福音書18章 24 & 25 //
イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
上記の2つ個所を,コンテクストを無視した断章断義だと,イエスは,富を否定しているという印象を与えることを否定できません。しかしながら,上記の2つの個所は,金持ちの青年が,エルサレムに向かっているイエスの一行に加えてもらおうとする箇所です。このコンテクストにより,上記の逸話に対しては,日本で流布している富や金銭を否定しているという解釈ではなく,以下の2通りの解釈ができます。
1つ目は,福音書のコンテクストの流れにより,当時の既得権者と戦い,世直しを行うイエスの一行に加えてもらうに際して求められる求められる覚悟。2つ目は,人間は,富や金銭に誘惑され,あべこべに富や金銭の偶像に支配されてしまうことに対する戒めです。
まず,イエスの一行に加えてもらうに際して求められる覚悟について述べます。一般的に,多くの既得権を有する人間が,世直しを行うことは,非常に難しい。,金持ちの青年が,エルサレムに向かっているイエスの一行に加えてもらおうとするとき,その青年に,イエスは,自分の財産を売り払い,貧しい人々に分け与えることを要求します。金持ちの青年は,イエスの一行に加えてもらうことを断念します。このコンテクストからすると,上記の2つの箇所は,既得権者(金持ち)が自分の身を切る改革行う(天の国に入る)のは難しいことを意味しています。
次に,人間が富や金銭の偶像に支配されてしまうことに対する戒めについて述べます。イエスの一行に加えてもらおうとした金持ちの青年は,自分が所有する財産によって,自分の行動が制限されてしまいました。一般的に,人が精神的自由をえるためには,富の偶像から自由なること必要です。ところが,人間は安易に富や金銭の偶像に支配されてしまいます。これは,若くして宝くじに当たった人の多くが,数年後に自己破産を迎えることが多いことからもうかがえます。また,人間は,財産を生活の最大事,努力の最終目標と考えたり,財産の多寡によって人間や身分を測る傾向があります。これも,人が富や金銭の偶像に従属する奴隷になってしまいます。これを防止するのは,財産を保存し,よく管理して,その収入を神のみ心にしたがって--誘惑されることが多い金銭を神の意志と委託に従う高い目的を達するための手段として--使用すべきと諭されています。
現実問題として,金銭を神の意志と委託に従う高い目的を達するための手段として使用することは難しい。これを実現するためには,神のみを畏れ,神のみに使えること,神の他いかなる偶像をも拝せず,ことに人間や財産,名誉を崇拝しないことにあるとされる。神の恵みにあずかることを,全て人生の宝や,その点での他人の優越よりも,高く評価するようになれば,人は,ねたみや虚栄心への素質をも,自ら捨て去ることができるからです。
私は,人生の財宝は,堅固な道徳的確認,精神の良い教養,愛,誠実,仕事の能力と仕事の楽しみ,精神および肉体の健康,そして,ほど良い財産と考えています。そこで,外見にも,住居や飲食などにも,あまり大きな価値をおくことはなく,贅沢は自分にふさわしくないもの,他人に対しては不正なものとして用心深くさけることにしています。