『春の遺跡』は小説家藤代肇が1981年に刊行した小説である。

作者の藤代肇は1920年生まれであるが、没年が不明となっている。小説家の没年不明は、現代においてどこか不思議だ。

 

小説という形を取りながらも、学術論文でも引用されているので、内容はほぼ事実と捉えてよいのであろう。

一方作者自身は1943年に学徒出陣で動員され、中国の海口で終戦を迎えている。そして私家版のあとがきには「戦没学徒兵たちの日記や手記から、彼らの短くとも燃焼しきった青春時時代を掘り起こす」と書かれている。よって自身の体験ではない。

 

主人公の名前は帝大生の「井出太郎」、婚約者は音楽家の美村陽子である。そして建築家として、軽井沢とも縁の深いウィリアム・メレル・ヴォーリズは「ヴォリス」と記され、作中には実名で登場する人物も多く見られる。

本編では「戦時下の軽井沢」という視点から3か所を紹介し、筆者の解説を加える。

筆者にとって久々の「戦時下の軽井沢」シリーズである。

 

1 軽井沢からの通勤

 

ヴォリスが(帝国)大学の講師になったのも、戦争勃発後で、ヴォリスはそれまでやっていた仕事を全部やめて、今は軽井沢に住んでいた。

そして週に1度、そこからサンドウィッチを携えて東京に出て来た。そのサンドウィッチは三人分は優にあって、いつも講義の後の英会話教室で包みを解かれ、井出もよくお相伴にあずかったが、バター付きで、その上、レタスにマヨネーズまでつけてあって、当時としては珍しいご馳走であった。

 

ヴォリスの講義は水曜日の午後1時からで、講義に引き続いて英会話教室があり、それが終わるのが大体4時前後であった。ヴォリスはその晩は東京の知人の家に泊まって、翌日、軽井沢に戻った。

 

→ヴォーリズは戦争中は軽井沢から東京に週一回通う稀有な存在であった。特別な移動許可が必要であった。

戦時下の東大では、政府の「敵性語排除」の方針と、学術研究に必要な「英語」というツールとの間で、限定的ながら英語教育が続けられていた。

 

軽井沢駅「旧駅舎口」

 

2 軽井沢に疎開した音楽家

 

東京では、ピアノを奏くにも隣近所に遠慮しながら奏かねばならなかったが、ここではまだあちこちでピアノの音がした。それもバイエルとかソナチネでなく、専門家が奏くような名曲がよく聞こえてきた。

実際、専門家も大勢来ていたようで、軽井沢ホール(集会堂)で音楽会を催すときなど、軽井沢在住の音楽家だけで十分間に合うそうであった。

新響の常任指揮者でピアニストのヨーゼフ・ローゼンストックも、万平ホテルの裏山の中腹に山小屋を建てて住んでいた。毎日、下のホテルまで新聞を読みに降りてきた。井出もホテルのロビーで2,3度それらしい姿を見かけた。

“旧軽”の表通りでも一度会った。外人が二人手を組んで、同じように手を組んだヴォリスと井出の横を、キビキビした足取りで追い抜いていった。

「小さい方、ローゼンストックですね」と井出が言うと、ヴォリスは

「大きい方、レオ・シロタ、デショウ、ピアニストノ」と言った。

ヴォリスの話では、シロタの家は草軽線の線路ぎわにあって、そこからはいつもスバラシイ音が聞こえてきた。

 

→外務省の史料によるとローゼンストックは軽井沢710番、レオ・シロタは1068番のハウスナンバーである。

レオ・シロタの1068番はまさに旧草軽線(軽井沢本通り)のすぐ側の元青年会の建物で、ぴったりと符合する。一方の710番は、万平ホテルとは全く離れた、本通りの反対側で、両者のつじつまは合わない。戦時中に借りる別荘を変えた可能性もある。

 

万平ホテルに備えられていた新聞は「ジャパンタイムス」(1943年に「ニッポンタイムズ[に改称)であろう。

その「ニッポンタイムズ」の1944年9月22日に、訪問記として
「涼しい軽井沢で彼らは学び、遊んでいる」(In Cool Karuizawa They Study and Play)という記事を掲載している。

 

ヴォーリズ設計の集会堂


 

3 軽井沢駅前の光景

 

井沢は婚約者の音楽家、美村陽子と軽井沢に向かう。

軽井沢で降りたのは二人だけだった。昇降口の扉を開けた途端、鋭い冷気が二人を包んだ。風が笛のような甲高い音を響かせながら、人影のないホームの上を吹きまくっていた。

以前ここへ来たときは避暑客で賑わっていた駅前広場も、いまは人気が全く絶え、国道ぞいにに何軒かあったはずの旅館や商店も、ちょっと見たところ、開いているのは一軒もなさそうだった。


右手に草軽電鉄の停車場のあかりが見えたので、国道を横切って行ってみると、ちょうど終電車が出たあとだった。井出はヴォリスの家の近くの万平ホテルに泊まるつもりでいたが、この風のなかを旧軽井沢まで歩いていくわけにもいかなかった。だが、そこを出て駅に戻る途中、運よく案内所が見つかったので、そこで聞いてみると、万平ホテルはもうだいぶ前に閉鎖になり、いまはソ連大使館になっているそうだった。結局、案内所の紹介してくれた所に泊まるよりほかなかった。二人は案内所のだるまストーブでしばらく暖をとってから、また寒風のなかにとびだしていった。

着いた先は国道ぞいの、例の駅前旅館の一つだった。二人は廊下の曲がり角にある八畳の部屋へ案内された。

3月の軽井沢は東京の寒中に等しかった。

→3月とあるがこれは1944年の3月か45年のか?帳場のラジオが、B29の本土接近を告げているとの記載があることから、終戦半年前の1945年3月という事になる。

 

筆者の近著「又々心の糧」で詳しく取り上げた軽井沢駅前の描写である。このころ国道は駅の真ん前を線路に沿って走っていた。駅前の旅館は戦時下のお客減少で閉まっていたが、一軒だけ開いていた。これはおそらく油屋であろう。

こういう証言を拙著に於いて紹介した。

「終戦時の話である。開戦前に特命全権大使としてアメリカに派遣されていた来栖三郎の姪である小川八重子が、油屋の女将を務めていた。小川の回想である。その油屋旅館に吉田茂から電話が入った」

 

現在の軽井沢駅前の風景。

油屋は以下の写真のBの位置にあった。

 

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