ミラノ・コルティナ冬季オリンピック開始まであと100日程と報じられている。これから徐々に盛り上がってくることでしょう。コルティナ(コルティーナ・ダンペッツォ)は標高1200メートルの登山やウィンタースポーツの拠点となるリゾート地である。

 

筆者にとってここは先の大戦の後半、ローマの日本大使館の疎開先となった場所として印象深い場所である。

1943年7月9日に連合軍がシチリア島に上陸した。7月25日、ムッソリーニは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に「統帥権の国王への返還」報告したその場で身柄を拘束された。

 

当時の日高信六郎駐イタリア大使は回想している。

「9月8日、イタリアと英米との休戦の発表は寝耳に水であった。(中略)かくして我々一行数十名は20余台の自動車に分乗し、行方も定めずにローマを立ち出た。しんがりの私の車が動き出したのは9月9日の午後5時を過ぎていた」

 

彼らはドイツ軍の支配するヴェネツィアに避難し、大使館仮事務所を開設した。その後ドイツ軍に救出されたムッソリーニは、ヴェネツィア西方200キロ足らずのガルダ湖畔に住居を構えた。ムッソリーニに忠誠を誓う政府関係者もガルダ湖畔移動してきて、日本大使館を開くホテルは取れなかったので、ヴェネツィアに留まる。

 

ただし大使館と満州国公使館の家族、陸軍武官室と家族はこの時すでに、疎開先として今度オリンピックの開催されるコルティーナ・ダンペッツォに移っている。筆者は疎開者で子供だった、井上まゆみさんと山下忠さんに当時の話を伺ったことがある。

 

1944年の年始には日高大使もヴェニスから来て、元旦に皆で撮った記念写真が残っている。

中央左が日高大使で右が清水盛明陸軍武官。井上さん、山下さんも最前列に写っている。

 

しかし翌1944年9月、連合軍が北上してポー川近くに進出してきた。日本大使館はヴェネツィアから、ピアーヴェ川を北に140キロ遡ったコルティーナ・ダンペッツォに移る。

 

次も日高の同地での回想だ。

「わたくしたちが着いた9月下旬は、季節外れであったばかりでなく戦争中のこととて、大小のホテルはドイツ軍の病院に徴発され、大きな店は戸を閉じて、疎開客の他には、たいしたお客も見当たらず、召集にもれたガイドたちも、手持ちぶさたに見受けられた。


着いて間もなく、ホテルから移り住んだシャレー造りの小さな別荘の2階の寝室で目を覚まし、カーテンをめくって眺める景色は、毎朝の楽しみであった」

 

ベルリンの日本大使館に電話するにも15キロほど北のドイツとの国境に出かけ、そこの税関の電話を借りてかけるしか方法がなかった。日本大使館は、ムッソリーニ政府と行動を共にするという任務以外は、実質仕事はなかった。

 

そしてその後もドイツの敗戦まで、日高大使の逃避行は続く。オリンピックをテレビ等でご覧になる際に、こんな話も思い出していただけると幸いだ。

 

以上

 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら (アマゾン)

本編に関連する『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら