<渡欧時代>

 

東京大学経友会の会報に載る表題の記事と、著者である増倉氏が欧州滞在中に集めた沢山のホテルのステッカーのコピーを、ご親戚の方から送っていただいた。今から90年も前のステッカーであるが、どれもなかなか趣向に富む。

本編では、増倉氏の記事から一部を紹介し若干の解説を加え、その後にドイツを中心としたホテルのステッカーを紹介する。

 

木材会社に籍をおき、欧州へ鹿島立ったのは昭和9年(1934年)5月末。

同船には最後は社会党副委員長で故人となった和田博雄君、オリンピック選手南部忠平君、弘道館範士の永岡9段らと乗り合わせ、マルセイユまでの40余日は実に楽しい一幕でもあった。

 

「鹿島立ち」(かしまだち)とは、旅立ちや門出を意味する言葉で、特に武士や防人(さきもり)が旅立つ際に、鹿島神宮で旅の安全を祈願した故事に由来する。日本郵船の欧州航路に就航していた船に「鹿島丸」があり、同船で渡欧する人はそれにかけて「鹿島立つ」と表現した。増倉氏もその例に倣っている。

 

(1934年)7月14日のパリ―祭を見て、ベルリンに入った7月末ごろは、ドイツ国内はヒンデンブルク大統領の統治下で三色旗が掲げられ、10日間ほどでナチスのハーケンクロイツの国旗に塗り替えられたのは、まさに歴史的変革であった。

 

→ヒンデンブルク大統領のヴァイマル共和国の国旗は現在と同じ黒、赤、黄(金色)の三色旗であった。8月2日にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは大統領と首相の権能を統合して「総統」と自らを呼んだ。こうして名実共に共和政は消滅した。

 

昭和11年(1936年)はベルリンオリンピックの年であり、ヒトラー政権の最盛時代でアウトバーンも着々整備され、ベルリンフィルハーモニーもフルトベングラー指揮で、ベートーベンのナンバーシンフォニーが良く演奏された年でもあった。

 

その後ベルリンに来た橋本国彦(上野音楽学校教授)、指揮者で名声をはせた尾高尚忠、藤原義江,鰐淵賢舟等が私の部屋に集合した。

アパートには長女のために購入した木目が綺麗なピアノがあったので、練習の目的もあって訪問したが、何よりの魅力はアパートの地下がビアースチューベ(ビールレストラン)で、ガラス製の1リットル入りのジョッキを分け合って痛飲する日々が続いた。

 

→滞在するベルリンで、娘のためのピアノを購入するとは経済的に恵まれていた印象であるが、当時は輸入ピアノを日本で買うよりは、はるかに廉価であったか。

鰐淵賢舟はバイオリニストで妻がオーストリア人。娘が同じバイオリニストの鰐淵晴子である。一家は戦後軽井沢に別荘を持ち、筆者は何度か紹介した。

 

当時東電、阪急両社長だった小林一三翁も来伯され、ドイツのD.A.Z.の新聞記事に電鉄ホテル、歌劇の経営者の見出しで大きく報道された。オペラシーズンにオペラ裏やカフェフェミーナ外案内役の依頼を受け、拙いドイツ語で各処を歴訪した。

 

当時15、6歳の井口マリオン嬢を宝塚音楽歌劇場への勧誘を彼女の母に伝えたが、モスクワバレー団を希望され、遂に成立しなかったが、実に容姿端麗な少女でハーフは特に美しく、異彩を放っていた。

 

→井口マリオンの父親は夫は井口孝親で九州大学法学部からドイツへ留学する。その際に結婚するが、孝親が帰国する時に夫人(アンネマリ―)はマリオンと共にドイツに留まった。

「家族制度の全く違った日本に行って住む決心がつかなかった」と言う。

母と娘は1945年ドイツの敗戦に伴い、日本人は本国に引き揚げるがそのままオーストリアの疎開地に留まったようだ。その後の消息は不明である。

 

<欧州各地を旅して>

 

マロニエが咲き薫る頃にはよくパリーに出向いてルーブル始め各ミュージアムを鑑賞したが、当時岡本太郎君も留学中で、所謂ヌード喫茶「スインクス」でお茶を飲み、彼の「アトリエ」で私がぼろピアノをたたいて、彼と私の妻がダンスに興じたころの思い出がある。

 

アムステルダムではブラームスのバイオリンコンチェルトを当時老境のフーベルマンが、ブルーノワルター指揮での演奏会を偶然聞く機会が出来た。

 

斯くて欧州は北欧から北極圏を突破して北緯80度のスピッツベルゲンやノルウェイ海岸をドイツ船モンテローザ号で旅し、南欧も同船で地中海沿岸の各国ギリシャ、トルコ、北アフリカ各地を見て当時の風物をカメラして、ロンドンでは数か月家庭に入り、ちょうど現最高裁判事(当時)の大隅健一郎氏夫妻とアメリカに渡り、各地を大隅夫妻と巡って、ロスから浅間丸でハワイ経由で帰国して、一週間後に日支事変(1937年)が始まり第二次大戦に発展した。

以上

 

<ステッカー>

 

当時は多くのホテル、交通機関はステッカーを持っていた。旅行者はそれをスーツケースに貼り、ホテルはそれが良い広告になると考えたのが、その理由であろう。

その後大阪大空襲で焼け出された際も、増倉氏はこれらのステッカーを持って逃げたとの事である。本人にとってもとても大事なものであったに違いない。

以下はそれらからいくつかを筆者の開設を加えて紹介するものである。いずれも一流ホテルだ。

 

ルフトハンザ

右はLuftexpressgut(航空貨物) ここでは預け入れ荷物のことか?

         

 

モンテローザ  

増倉氏が北欧及び南欧旅行に利用した船。

「ハンブルク―南アメリカ汽船会社」と書いてある。

(Hamburg Südamerikanische Dampfschifffahrts-Gesellschaft)

1924年から「モンテ級」として5隻建造された。

 

ベルリン

ホテルアドロン (Hotel Adlon) 

下には「ウンターデンリンデン、パリ広場」と書いてある。

ホテルはブランデンブルク門のすぐそばに1907年にオープン。第二次世界大戦で破壊され1997年に再開。

その下の写真は再開後の同ホテル(筆者撮影)

 

 

 

 

エデンホテル (Eden Hotel)

1912年にクアフュルステンダム通りにオープン。

第2次世界大戦で破壊された。戦後跡地は、別の建物となる。

 

ベルリン ヒルトン

アメリカ資本らしく当時からモダンなステッカー。

 

フランクフルト

カールトンホテル(Carlton Hotel) 駅の向かいとの解説あり

同ホテルは1899年から1940年までロンドンにあった高級ホテルという記述はあるが、フランクフルトにもあったとは書かれていない。(ウィキペディア)

ステッカーは洒落た夜景だ。

 

ハイデルベルク

古城ホテル(Schloss-Hotel)

1873年から1964年まで営業。白の背後の水色はネッカー川か。

 

ホテル帝国郵便―帝国旅館(Hotel Reichspost-Reichshof) ハイデルベルク

日本郵政グループが運営していたかんぽの宿のようなものか。

 

ミュンヘン

ホテル オイロペーイッシャーホーフ(Hotel Europäischer Hof)

ドイツの大きな都市にいくつかあるホテル。1865年にハイデルベルクに建てられたのが最初か?

絵はフラウエンキルヒェ(教会)

 

ヴィースバーデン

ホテル シュバルツァーボック(黒ヤギ) Hotel Schwarzer Bock

歴史があり1486年には建てられていた。今日もラディソンホテルグループのメンバーとして健在。

 

ルール地方 エッセン

カイザーホーフ(Kaiserhof)

いくつかの都市にこの前の由緒あるホテルがある。

1912年にオープン。鉄鋼の都市らしいデザインだが、1974年に閉業。

 

ハンブルク

ホテル ベルリン(Hotel Berlin)

詳細は不明だが、ベルリンのシンボルである熊が描かれているので、ベルリンが本拠のホテルか。

 

パラストホテル(Palast-Hotel)

アルスター湖畔にあった立派なホテル。1880年から1930年代迄営業しその後銀行の事務所となる。

 

ダルムシュタット

ホテル-ツア-トラウベ(Hotel Zur Traube)

1850年にオープン。増倉氏の訪問する少し前の1932年5月にトーマス・マンが訪問している。ヒンデンブルク大統領が訪問した写真も残っている。

 

ゴスラー

ホテル-デア-アフターマン(Hotel Der Achtermann) 直訳すると「8人目の男」

ハルツ地方の中心的な都市ゴスラーの旧市街で今日まで500年以上営業を続けている。

 

ウィーン

ホテル レギーナ(Hottel Regina)

ホテルの開業は1896年。現在はクレムスレーナー家(Kremslehner)4代目が経営に当たっている。

 

パリ

よくベルリンから出向いたというパリのホテルのステッカーもある。

3枚紹介。

 

 

 

日本郵船

欧州に3年滞在し、アメリカ経由で帰国する増倉氏はロサンジェルス(サンフランシスコ)からハワイを経由し、日本郵船浅間丸で横浜に戻る。その際に入手した寄港地のステッカーであろう。

 

なおスイスのホテルのステッカーなど興味深いものはまだあるが、それらの紹介は別の機会に譲る。

 

以上

 

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