筆者はフランス関連の自著において「パリの日本料理店 牡丹屋をめぐって」という作品を載せている。戦前からほぼ戦中を通して営業し、そして戦後まもなく再開したパリの日本料理店牡丹屋。自著の中ではオーナーの下平敏の出身地から、「パリの日本食堂のルーツは(長野県)上伊那郡である」という説を掲げた。

 

書籍化に際し、連絡の取れた親族の方から貴重な写真なども提供いただいたが、渡仏の時期など、どうもはっきりしない点がいくつか残った。本編ではその後に判明したことを述べていく。

 

<渡欧時期>

 

『日英新誌』日英新誌社という雑誌は、日本郵船による渡欧者の名前を載せている。最近デジタル公開された雑誌の様だ。それによると、
1923年1月15日、ロンドン入港の筥崎丸の途中のマルセーユ下船者62名の中に「学生 下平敏」の名前がある。

 

親族の話によると、敏は1899年の兄(文良)の2つか3つ下との話なので、22,3歳での渡仏となる。職業欄の「学生」から推察すると、留学ではなく日本の大学に籍を置いたままの渡欧か。

 

下平家は長年続く庄屋であった。経済的には恵まれた家であった。敏には兄の他に3人の妹がいた。通常は後継ぎとなる長男にすべてを継がせるが、父親は次男(敏)を不憫に思ったのか彼も援助をした。そうした父親の次男への可愛がりもあってか、兄とは折り合いが悪く、パリへの遊学を決めたという。そして父は渡航費も出したのではなかろうか? 

 

敏の実家。1950年撮影。

寛政2年(1790年)建築の隠居後の住まいで、隣には本家があった。後に全体を後ろに曳家し、現存する。

 

<渡仏直後>

 

牡丹屋の開業は雑誌の広告から1928年ごろと筆者は前掲著で推測した。1923年にマルセイユに到着してから、それまで何をしていたのか?

 

『生糸ひとすじ : 古村敏章手記』によると、

1924年12月22日の午後4時、古村はパリのガール・デ・リオン駅に着いた。

下平敏氏が出迎えてくれた。ホテル・アンテルナショナルに泊まる。11時まで話して帰った。下平氏は国際連盟陸軍代表部勤務、1年志願の同年兵下平文良君の弟である」

 

著者の古村敏章は辰野町の出身で、兄文良とは軍隊で一緒であった。

文良は地元で教員として勤務する傍ら、国文学者の折口信夫とも交流し、合作の彫刻もある。ものづくりの好きな人物であった。

 

敏はパリに着いて現地採用で、国際連盟陸軍代表部勤務となった。大使館に勤務したと息子のクロードは覚えているようなので、おそらく代表部は大使館内にあったのだろう。敏は日本にいた時から英語が得意であった。

 

また12月24日のクリスマスイブには、

「下平敏君と、その友人シモン嬢の案内で、ノートルダム寺院を始め、パリの有名教会のミサに参加」とある。彼女がその後妻(Elisabeth SIMONNOT)となる。出会いはパリ到着後から間もなくであった。

 

おそらく敏は妻シモンの影響もあり、フランスの滞在期限がきても、帰国せずにパリに留まることを決め、1928年頃に牡丹屋を開業した。最初は旧大使館そばのトロカデロ広場に開業し1935年、規模を拡大してモザール広場へ移転した。その間の1929年には一人息子のクロードが生まれる。

 

牡丹屋開業初期の様子を語るものとして『欧州物語』(沖野岩三郎 1933年)には

「表のガラス戸に『牡丹屋』と書いてある。その名で直ちにここの主人が、信州諏訪の産だと察した。話してみると果たしてそうだった。しかもこの主人、明治学院出身で目下国際連盟支部に勤めている染谷爲介君をよく知っていたので電話をかけてもらった」

 

上諏訪にあった「牡丹屋」は夏目漱石、田山花袋なども泊まったことのある、よく知られた温泉宿であった。沖野は諏訪との地縁はなさそうであるが、それほど牡丹屋の名前は全国に轟いていたか。

 

敏はそこから名前店のを取ったのであった。レストランだけではなく、ホテルも経営したから牡丹屋としたのであろう。また文中の明治学院出身は下平ではなく染谷爲介のことだ。筆者の沖野も明治学院の出身であった。染谷は敗戦に伴う日本への帰国の途中で亡くなる。

 

敗戦で一端日本に戻った敏だが、1949年にパリに戻る。妻がフランス人という特別な事情から、入国査証発給を受けた。そして翌年には牡丹屋を再開する。日本にいる時、兄文良の娘は、敏から美味しいチョコレートをもらったことを覚えている。

 

<戦後>

 

以降は戦後の話である。牡丹屋への賛辞が多い。

戦後初の渡欧者を求めて フランス」で紹介した桶谷繁雄は書いている

「ノーベル賞の授賞式に出席された湯川博士が夫人同伴でパリにちょっと立ち寄った。

ホテルはルーブルで博物館の横、読売の高田博厚氏、朝日の小島氏などのお世話で、湯浅女史、画家の萩須(高徳)氏や私が集まって、牡丹屋ですき焼きの会食をした。ご夫妻とも非情な元気でした」

 

『パリのアバタ』九重敏子(1955年)には牡丹屋族という言葉が登場する。

九重敏子は日本の女性発明家の草分けとも呼ばれる。1953、54年と続けてパリにて九重織展を開催する。九重は牡丹屋を定宿とした。彼女は下平そして牡丹屋についてかなり詳しく述べている。

「フランス人を奥さんにしている50そこそこの大柄の人だ。パリに永住し、家庭を持つ人の中では成功者のひとり。

建物は大通りに面した3階建ての煉瓦造りで、その上に屋根部屋のある独立ビルである。パリでは割合に珍しく鉄の門の中の2,30坪くらいの小庭には日本の石燈籠がある竹の木が植えてある石段を2,3段上がるとアーチ形のドアがあり、玄関である。

1階は大、中、小の食堂があり多くのフランス人やアメリカ人が来て、すき焼きを珍重し天ぷらを賞味する。2階3階はホテルでありパンションである。まことに古めかしい感じである」

 

生憎当時の牡丹屋の写真は見つからない。しかし筆者はグーグルマップで牡丹屋のあった住所を探しだしていたそして道路から引っ込んだところにある事に少しいぶかしがっていた。九重の記述によればそれはパリでは珍しかったようだ。現在の建物も確かに3階建てで、4階はやや狭い。そして現在でも鉄の門と建物の間には小庭がある。

グーグルマップより

 

牡丹屋族とは、パリまで来て、日本人のホテルに泊まる野暮天の日本人という意味の蔑称であった。”パリかぶれ”の一派がそう呼んだ。

 

しかし原千恵子を始めとする文化人、そして日本人のみならず社会的地位のある外国人が牡丹屋に長期滞在し、野暮天の正反対である、というのが、九重の主張であった。九重は昼は街でフランス語の頭で働き、夜は牡丹屋で日本語で暮らした。三島由紀夫が滞在したことも筆者は別の所で書いた。

 

1958年に敏は肝臓がんで亡くなる。敏の一周忌に妻は初めて日本を訪問した。どうも日本側ではシモンの帰国時のことを覚えている方はいない様だ。

 

間もなく牡丹屋は閉店となる。

そして下平を頼って渡仏した同郷の芦部巧によって「タカラ」へと繋がる。冒頭の様に「パリの日本食堂のルーツは(長野県)上伊那郡である」と筆者が主張する所以である。

 

興味を持たれた方は、パリの日本食の歴史を述べた筆者の『第二次世界大戦下の欧州邦人(フランス編)』をお読みいただけると幸いだ。

 

引用箇所に挙げた書物の他に、下平文隆さんの情報、及び「戦争とパリ : ある二人の日本人の青春1935-45年」(池村俊郎)を参考にした。

 

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