淡々と書き進めてきた「戦後初の渡欧者を求めて」シリーズは今回が最終回である。スウェーデンとイタリアを取り上げる。
<スウェーデン>
冒頭に1946年4月に西村ヨネがストックホルムに入ったと紹介したが1947年7月、スウェーデン赤十字ベルナドッテ社長から、1948年8月20日から30日まで10日間開催される第17回赤十字国際会議への招請状が日本赤十字社に届く。
しかしGHQは日本独自の出席を認めず、オブザーバーとしてミルトン・エバンス氏を派遣、その技術顧問として社長島津忠承、外事部長工藤忠夫、嘱託渥美鉄三が同行することに同意した。
戦時中同社の副社長であった島津は、終戦間際にスイスからマルセル・ジュノー博士が満州を経由して日本に着くと聞き、
「(事務所の疎開先である)上諏訪にいた私はあわてて東京に帰ることにした。途中、下り列車が艦載機の攻撃をうけ、不通になってしまい、小仏峠を歩いて越えたりして、ようやく帰京した」と、いうエピソードの書き残している。
会議ではオブザーバーのオブザーバーともいえる日本には発言権も、議決権もなく、会場には日の丸も掲げられなかった。しかしながらこれが戦後最初の国際会議への参加であろうか?
ベルナドッテ社長は1945年4月親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラーと会見し、ドイツの休戦・降伏交渉に関与するが、不成功に終わっている。
付け加えると4年後の1952年、第18回大会はカナダのトロントで開催された。「サンフランシスコ条約調印後初の国際会議への参加」と「日本赤十字社社史稿 昭和21年~昭和30年」に記されている。
外事部から工藤部長と太田成美部員、政府からはカナダ在勤の成田勝四郎公使が出席した。
<イタリア>
日本画家でカトリック美術家の長谷川路可(はせがわろか)は1950年、聖年(ローマ巡礼者に特別の赦しを与える年)に際してバチカンを訪れた。同年の8月、既に金山政英駐バチカン代理公使の紹介で、松風誠人を介して、ローマ近郊チヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会の壁画制作を依頼されており、翌年の年頭から下絵の制作に取りかかった。
1954年10月、コンスタンティーニ枢機卿を迎えて、壁画完成の祝別式が挙行され、路可はチヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられた。
戦後間もなくの渡欧、渡米者にカトリック関係者の多いのは、彼らは戦争中は軍国主義と無縁であったことでGHQが許可を出した、そして受け入れ国のカトリック組織が経済的サポート等をしたからであろう。
金山政英は左記に登場するカトリック信徒の外交官として、1941年3月から1952年6月までの11年間を家族と共にバチカンで過ごした。ドイツ崩壊後も、バチカンは日本の外交官の退去を求めなかったようだ。欧州にそのまま留まった数少ない日本人の一人である。
1950年4月25日の朝日新聞には
「ローマ法王に謁見
聖年祭の報道のためローマに滞在中の記者(黒住征士特派員)は22日午前10時半、ヴァティカン宮でピオ12世に謁見した。」という記事が出る。彼は先述の金山政英に伴われての謁見であった。黒住特派員はすでに特派員として、戦後ローマに派遣されていたのかは不明である。
(聖年はキリスト生誕以来25年目ごとに巡ってくる”良き年”のこと)
湘南の片瀬教会のホームページには「片瀬教会と長谷川路可」という項目がある。
1939年3月19日、同教会献堂式の時の集合写真と、20名ほどの招待客と思われる記念写真に長谷川路可が写っている。教会の主要メンバーであったことが分かる。
<田口芳五郎司教>
黒住特派員は1950年8月2日に次のような内容の記事も書いている。
5月14の日曜日に東京から日本のカトリック代表として、大阪の田口芳五郎司教を筆頭に、聖年祭始まって以来、初の日本人巡礼団が聖地巡礼を行う。
日本から来たのは田口司教と名古屋のバブリク神父、湘南藤沢の聖心愛子会、会長ミソノ・テレジアさんと秘書の加藤修道女の4人だけだが、これにローマ留学中の神父、神学生、在留邦人が加わって30人の行進となった。日本人の姿を見て、各国の巡礼団はびっくりしたという。
バチカンのウルバン大学の留学生を中心に、20数名の日本人がローマで終戦を迎えそのまま留まったか。
敗戦後の貧しい時期だが、日本の各教区、修道院から集まった寄付金は65万円であった。そしてイタリアへの戦後の訪問者は、カトリック信者から始まったと言える。
<岩元梶子>
六本木、飯倉片町の伝説的イタリアレストラン「キャンティ」の創始者川添浩史の妻(旧姓岩元)梶子は『キャンティ物語』によれば、1947年にイタリアに彫刻の勉強のために留学する。父が亡くなり遺産が入ったことも理由のひとつであった。
「マニラに長姉が嫁いでいたのでひとまずフィリピンに飛び、そこからパリ行きの飛行機に乗った。」と珍しい経路であった。

多くの芸能人に愛され、今も人気のキャンティ
ただし渡航の時期については、もう少し遅いのではないかと筆者は考える。梶子は先ずパリに入り、そこではまずシャンソン歌手石井好子を訪問すると書かれているが、石井がパリに渡ったのは1952年である。
また『南十字星 : シンガポール日本人社会の歩み』という本には
「篠崎氏が1951年”信洋丸”に乗って当地へ来られた時、当局によって上陸を拒否された。戦前戦中、同地に住んでいた人は入国禁止であった。
次に来られたのは、戦前の三井銀行上海支店長の末娘の岩元梶子さんであった。彼女は当時は 22 才ぐらいで、日本では有名な彫刻家だった。彼女は東京から飛行機でこられ、シンガポールから船でローマへ行かれる予定だった」と、こちらも梶子の渡欧が1952年頃であったことをうかがわせる。
キャンティの開業は1960年4月のことである。
シリーズでお読みいただき、ありがとうございました。
完
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