先日軽井沢駅前食堂「まるほん」の歴史というタイトルで、文章をアップしたら、かなり多くの人にお読みいただきまた、「自分もまるほんがすき」というコメントを幾人かの方からあった。
またお店のルーツは推測ではなく、しっかり知りたいという声もいただいた。
そんな中『軽井沢駅前旅館 まるほん』上田末雄(1993年5月)という本を目にする機会に恵まれた。
作者の上田末雄は1944年、丸本旅館上田家の娘の婿養子となる。つまり内部の方の書いた本であると共に、私家本のようで軽井沢図書館などにも在庫はない。
本編では先の筆者の記事に関し、本書を基に新しい重要な史実、修正箇所を加え、そこに戦前の軽井沢駅前についての考察を加えるものである。
<ルーツ>
「まるほん」のルーツは北国街道(ほっこくかいどう)、小諸宿の旧本陣であった。街道が廃れ小諸での生活が成り立たなくなると、一切を譲り渡し、軽井沢で旅館業を始めた。信越線(1888年開通)の線路工事が進められていた時期で、そこで働くの人達の宿が不足していたからである。つまり1880年代末には開業していたといえる。
実は軽井沢の本陣も同じように、旧軽井沢で新しい外国人客、別荘客を相手にした「軽井沢ホテル」を始めた。宿泊業としてのノウハウがあったから転業しやすかったのであろう。
当初は「広声館」(声は旧字)という名前であった。1906年の「帝国鉄道要鑑」には軽井沢駅前には「広声館」と「油屋」の2軒が載っている。そして広声館の名前は1923年発行の書物あたりまで見ることが出来る。
「油屋」も追分の脇本陣が廃れてきて、1889年に軽井沢に油屋(当初の名前は清響館)として、2軒目を出す。丸本旅館とも親戚関係であったらしい。
その後かつての旧本陣の名前を取って「丸本旅館」と変えた。かつては〇の中に本陣の「本」という字が入っていて「まるほん」と読んでいたのに、丸本をいう漢字を宛てたのだ。
ただし1933年の「軽井沢と附近の名所 4版」には
「
旅館:純日本式旅館にして親切丁寧なり。又草津温泉客の指定旅館也」と書いてある。ふたつの書き方が併存し〇に本の活字がない場合は「丸本」と書いたのかもしれない。筆者は今もパソコンでこの字の出し方が分からない。
筆者が当初澤渡温泉元 常盤樓丸本旅舘がルーツかという推測は全く外れたようだ。こちらも元は本陣であったのはないか?
なお先の拙文に書いたが、丸本旅館の名前はすでに1918年発行の書物に載る。先の1923年の案内書などに登場する広声館と時代的に重なるが、名前の変更は一気に浸透しなかったのかもしれない。
<現在に続く軽井沢駅前>
現在新幹線の軽井沢駅から旧軽井沢に向かう道(地図の青線)に対して、戦前は少し左側に道があった。
1925年頃その青線(ほぼ草軽電気鉄道の線路)と旧軽に向かう道の間には4軒の建物があった。(便宜上AからDまでアルファベットを振る)
「輕井澤別莊案内圖」(1935年 国会図書館デジタルコレクション)
それらを見ると興味深い発見がある。
A:〇ン運送店: 国鉄、草軽電気鉄道の駅に直結したような場所で、鉄道荷物の引き受けをしていたと想像できる。
運送店は後述の山屋商店が「軽井沢運送」を運営していてこれに当たる。
B:油屋旅館:先に述べたように(新)油屋旅館として駅前に進出のは明治22年(1889年)。
戦争中は憲兵が常時2~30人いて、2階から人の動きをチェックしていた。こちらは存在しないが、駅前には油屋ビルがあり、追分の油屋は今日まで営業を続けている。
現在も残る油屋の名前
C:山屋商店:外国人宣教師(チャペル師)からパン作りを習い、1895年、軽井沢初のパン屋としてオープン。
元は追分宿諏訪神社入口で茶屋を営んでいた。江戸・文久年間に全国的に流行したコレラで家族を失ったが、唯一生き残ったタカさんは婿養子を迎え、その子が袖山萬蔵であった。
萬蔵氏は父からわずかなお金をもらい、直江津から軽井沢まで開通して間もない明治23年に軽井沢駅前で饅頭屋山屋を創業した。
その後油屋(親戚筋にあたる)から隣に土地を分けてもらい、家を建て、御用聞き先の宣教師チャペルの別荘でパンの製法を習い、信州初となるパン屋を開業した。
駅ホームでの販売の権利を得て、軽井沢駅構内で「峠のあんぱん」、「トンネル煎餅」やお土産の開発をする。
神津牧場、明治屋、キリンビールの特約店となり、旧軽井沢に出張店を持ち、貸別荘、人力車や運送店の経営など、事業の幅を広げていった。(「新軽井沢の歩み」より)
1938年の写真には「SOCONY」(エッソ石油の前身)の看板も見える。
まるほんの上田末雄も婿養子であったが、婿養子の活躍も目立つ新軽井沢である。
1901年発行の「かるいざわ」 という書籍には積極的な広告が載っている。
「軽井沢に滞在せる3千余りの外人に供給するパンはどこで製造し販売するか?、、、
言わずと知れた、、、、山屋!!!
袖山萬蔵(主人)
追分避暑地に貸別荘所有す」
出身地追分で別荘を貸していた。外務省の記録では1937年の滞在外国人は1500~600人であった。3000人の外国人はどうも誇張ではないか。袖山萬蔵の積極性が伺われる。
現在の山屋(2018年撮影)。
「名物 軽井沢駅構内 あんぱん」と書かれた広告が窓に見える。
2024年に惜しくも閉店となる。
D:一田屋旅館(市田屋)
こちらも明治中頃追分よりやってきて、現在も同じ場所で旅館を続けている。
1924年の「善光寺案内記」には「市田屋旅館」として軽井沢天然製氷販売元の付記と共に、土屋高治の名前が載っている。
1925年の地図によると、道を挟んだ中軽井沢側には「スケートリンク」と「製氷池」があった。駅の反対側にも矢ヶ崎川、雲場川に沿って大きな製氷池があった。氷の一大産地であったようだ。
川村屋
他に鮮魚店で「本店は新軽井沢、 支店は旧軽井沢 軽井沢ホテル前」として川村屋市之助という名前が大正時代に出ている。佐久の臼田からであった。こちらは駅向かいの山屋に土地を譲ってもらい、その隣一田屋との間に店を出す。2代目の時、新聞販売、薬、土産など商品も多岐にわたる。
区画整理時に、現在地(一田旅館の横)にビルを建設して移転、レンタサイクルサイクルと不動産業に進出。地産観光開発株式会社という会社になっているが、ほぼ昔の場所である。新幹線の駅を出ると、屋根の古い自転車のオブジェが目に飛び込んできた。(2025年夏の訪問ではオブジェはなくなっていた)
現在
軽井沢駅の待合室(コミュニティプラザ、さわやかホール)から見ると、上のAからDの辺りの現在建物を、一望することが出来る。(下の写真)
左奥の建物が「ますや」、道を挟んだ右が「一田屋」、その隣が元「川村屋」、ロータリーの奥が元「山屋」、その隣が元「油屋」である。(升屋は「新軽井沢の商店街の歴史」で紹介)当時の姿がよく残っていると言える。
丸本旅館は小諸から、そして油屋旅館、一田屋旅館、山屋は、追分宿が廃れて、鉄道敷設で活気のある軽井沢駅に出て来たのであった。そして今日までかなりその痕跡を残している。
横川から軽井沢までのアプト式の鉄道は1891年に起工し、1893年に完成するが、大工事で多くの作業員が軽井沢に来たことが想像される。
政府が招へいしたお抱え外国人で、主任技師のポーナルは軽井沢に居を移し、毎朝馬で現場に通った。そして夜や休日には鉄道技師クラブでイングリッシュ・ビリヤードに興じた。このクラブの建物が不要となるや1897年に礼拝所となり、今日のユニオンチャーチとなる。
ポーナルは東京からパン、ハム、鶏卵等や英国聖のビールも携えてきて、日本人とは別に食事をした。主任技師の本間英一らは駅前油屋の弁当であった。
土源
まるほん旅館の右隣にあった土源についても触れておく。
土源こと土屋源一郎は沓掛(現中軽井沢)宿の脇本陣蔦屋の出身。沓掛では運送業などを営んでいたと思われる。鉄道開通後軽井沢駅前に拠点を移し、運送業を続けた。地元では丸通として親しまれた。
昭和8年には、駅前大通りの開削工事で立ち退きとなったカネキ(旧道本陣佐藤家が駅前に開いた運送業)と合併し、軽井沢通運となった。
昭和12年2月には源一郎氏が軽井沢町長に当選、以後16年、20年には3選されたが、戦後GHQの公職追放令で辞任となる。
沓掛から出て来て、町長にまで上り詰めた。
旧軽井沢の釜の沢レーンとサナトリウムレーンのちょうど中間あたりに「幻のホテル」といわれるオースティンホテルがあった。1928年に焼失してしまうが、その場所はその後ハウスナンバー1390であった。(「オースティンホテルの歴史地理」前田一馬)
そこは1939年頃の別荘地図によると土源の名前がある。ここに別荘を建てたのか?
現当主土屋敏久は駅近くの丹念亭の店主を務めている。
<草津温泉>
ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが訪問し賞賛した草津温泉は、全国的に評判が高くなった。「ベルツの日記」によればベルツは1904年、草津を訪れるためにまず軽井沢に来る。そして9月14日、朝4時半に軽井沢を出発し、その日の内に草津に着いている。人力車での訪問であろう。
その後まもなくして草津温泉を訪れる最短の交通手段が新軽井沢駅、丸本旅館の横を起点とする草軽電気鉄道となる。1914年から順次延長し、26年草津まで繋がる。
始発駅のすぐ横の丸本旅館は草津温泉旅館組合の出張事務所となり、事務員が常駐したらしい。これがパート1で紹介した、1929年の雑誌の広告に万座温泉の「御案内所 軽井沢駅前丸本旅館」のある背景である。
また草津まで55.5キロを3時間かけて走る草軽電気鉄道の最終に間に合わない人が、丸本旅館に泊まったともいう。まさに駅前旅館だ。
そのお客の流れが止まったのは、1946年に長野原線が渋川から長野原(草津)へと旅客を運ぶようになったからであった。草軽電気鉄道が廃止になったのはそれだけの理由ではないが、大きな要因のひとつであった。
<丸本旅館からレストランまるほん>
1965年の大晦日、プロパンガスのボンベが転倒、爆発して旅館は全焼してしまう。そして残念なことには全財産、貴重な本陣時代からの史料などもみな焼失した。
プロパン業者の過失によるものであった。わずかな補償を得て、翌1966年8月に「丸本食堂」を開く。平屋の建物であった。旅館の再建は資金的に難しかったのが第一の理由であった。
その後1971年、金融公庫からお金を借りて木造2階建て鉄板葺の「レストランまるほん」を開く。名前は分かりやすく平仮名とした。そして2階は食堂、1階は土産物店とした。
これが小諸の旧本陣をルーツとする今日の「レストランまるほん」の歴史である。現在のレストランは築50年を超えている。そして現在お店に出ていらっしゃる親子(おそらく)は、本の著者上田末雄氏の子供と孫の世代の方か。重ねてだが、本当にいつまでも続いて欲しい。
一方旧軽井沢の本陣は軽井沢ホテルを開いたと書いたが、1938年に閉鎖となる。それ以降の一家の足取りは不明であるが、佐藤家第18世はサッポロビール専務として勤務し、2004年没という記録がある。
なお1993年発行の本によると、幹線道路が完成するというので、1983年には道路に面した駐車場にまるほんの支店「ハッピーハウス」を建てる。さらに「シーガル」という白壁の土産物屋も開くが、2軒とも現在は存在しない。
「ハッピーハウス」工事中の写真の奥にはコーヒーショップ「丹念亭」(1978年開業)の屋根の風見鶏が見える。当時すでに風見鶏は少し傾いている印象だ。同じ通りには自家製ソーセージの「フレスガッセ」もあり、こちらは1980年の開業である。どちらも質実に営業を続けてきた印象である。
なお草軽電鉄の廃止と共に「新軽井沢」駅の名称は無くなったが、軽井沢町内循環バスのバス停に「新軽井沢」がある。かつての名残りであろうか?
長文お読みいただき、ありがとうございました。
また調査不足の点がありましたら、ご教示いただけると幸いです。
丹念亭

完
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