<ドイツ 1>

 

『戦後初の渡欧者を求めて』シリーズは前回フランス編をアップしてから、少し間が空いてしまったが、次はドイツである。

 

ドイツに戦後も残留した邦人については筆者はすでに発表している。(「敗戦ドイツの首都に残る」参照)

 

その敗戦国であるドイツへの最初の渡航は、

「(1949年)7月7日 西ドイツ ルール重工業の中心部デュッセルドルフ、デュイスブルグ、エッセン地方に向かう。戦後来訪した最初の日本人一行ということで、歓待を受けた。」とスイスの片山哲の欄で書いた。

 

しかし前年1948年11月7日の読売新聞には次のように報じられる。

「スイスのコー市で開かれたM.R.A訓練大会に14カ国の代表とともに参加した一行9名の内、三井高雄氏、同英子夫人、同令嬢直子さん、相馬恵胤氏、同雪香氏(元東京市長尾崎行雄氏3女、リーダースダイジェスト編集員)ら7名、ドイツ政府の招待を受け平和の”善き道”を携えた一行230名と共に日本人として初めてドイツに入った。

6台の大型バスでスイスの国境の村テンゲンドルフから、ドイツに入りウルムミュンヘンの生々しい破壊の跡を見て回った」

 

最初のドイツの訪問者は主たる訪問地スイスから、いわば追加的に寄ったのであった。

一方先の片山哲らの一行は初のルール地方の訪問と理解すべきであろう。なお道徳再武装(どうとくさいぶそう、英語: Moral Re-Armament、略称MRA)は、当時資金力が豊かな宗教をベースとする団体であった。

 

1949年3月、中国の天津からサーカス団員澤田豊が、ドイツ人夫人らとともに戻ったのが最初の個人であろうか。(筆者の「オデッセイア」参照)

 

日本と同様敗戦国ゆえ、日本からドイツへの正当な手続きによる渡航はアメリカやフランスに比べれば遅かった。留学生は1953年6月、9名の留学生の名前が発表されたのが最初のようである。

 

<ドイツ 2>

 

「ドイツにおける三井物産の歩み」という本には「戦後初のドイツへの旅行者」という記述がある。

 

1950年ドイツのユーザーの要求で遠州織機の大倉技師が技術指導のために、渡欧することになり、たまたま三上良臣に同行を求めてきた。第一物産(敗戦による解散後の三井物産の主体)はこれを快諾した。三上は三井物産の戦前のドイツ駐在者であった。

「三上氏は取得したパスポートも米軍司令部の発行のものであったが、戦後ドイツへの日本人旅行者としては三上氏たちが第一号であったという。」と同書に書かれている。

 

1952年4月27日、寺岡洪平(元ハンガリー公使)が当時の首都ボンの在外事務所長として朝日新聞に紹介されている。寺岡は1950年4月から、初代ニューヨーク在外事務所長を務めている。

 

またベルリンにはドイツ人俳優デ・コーヴァと結婚していた田中路子が、終戦後もそのまま残り、まだ大使館の無い時代に日本から来た訪問者の面倒を見たという。

 

1952年1月から2月、イギリス政府の招きで渡欧した奥むめお(女権運動家、主婦連会長)は、戦後のベルリンに最も早く現れた日本人の一人であった。奥はその思い出を次のように書いている。

 

「ベルリン飛行場の関門で質問を受けて、ドイツ語のわからぬ私がまごまごしていると、出迎え人のたまりから田中路子さんがとび出してきた。さっとざわめきが起こって衆目が集まったので、路子さんが有名人であることを、感知することが出来た。」

(ミチコ・タナカ 「男たちへの讃歌」より)

 

ベルリンの田中路子、デ・コーヴァー夫妻の墓。日本調で後ろの木はおそらく桜。

30年ほど前に撮影たものだが、最近はお墓の佇まいもだいぶ変わった様。

 

戦争中、ベルリンの日本大使館に嘱託として勤務した野原駒吉は、ドイツの崩壊で日本に送還されるが、モスクワに残留し、1946年4月、そこからベルリンに戻った。どうも彼が戦後最初のドイツに入った日本人のようだ。(野原についてはこちら参照)

 

<浅井一彦の渡航の試み>

 

当時はどのように渡航許可を得たのであろうか?

終戦まで満州重工業のベルリン駐在員であった浅井一彦は、ドイツ人妻と子供を残し、ソ連軍の手で半ば強制的に日本に戻された。

 

終戦後1年たっても状況がわからなかった妻子について、あちこち手を尽くした結果、国際赤十字を通じて、当時の東ドイツでの生存を確認し、ドイツに赴いて救出することを決意した。

 

周りから不可能といわれた米占領軍からの出国許可を取るべく、1947年9月18日、連合国最高司令官マッカーサー元帥に直訴状を書いた。そしてマッカーサー元帥の元を訪れる。本人には会えなかったものの強硬にねばり、直訴状を副官に言付けたところ、3日後に出国査証発行の許可が下りた。

当時の例外的渡航許可はマッカーサー司令官によってのみだされたのであろう。

 

付け加えると浅井はなんとか旅券を作成してもらったが、ドイツに向かう交通手段がままならず、3ヶ月アメリカの貨物船を待つ間に、スイス国際赤十字社から妻子は無事にスイスへ救出され、貨物船で日本へ向かったとの電報が届く。

(「マッカーサーへの手紙」より)

 

同書では

「昭和60年(1985年)9月10日、早くも秋の気配が忍び寄る高原の軽井沢。草花が生い茂る広い庭に建てられたスイス風木造の別荘のベランダで、浅井エリカに会った」とも書かれている。浅井家も軽井沢に縁があった。

 

なお他にユニークな渡欧者をご存知の方がいたら、お教えいただけると幸いである。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)