連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサーは1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。
そして日比谷の第一生命館(第一生命ビル)に司令部を移すことを決め、9月17日に東京のアメリカ大使館に公邸を移すまでの3週間ほどの横浜滞在については「マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く」としてすでに紹介した。
執務室が横浜ニューグランドホテルにあったことは明白だが、宿舎はあまりはっきりしないようである。興味のある方はご一読いただけると幸いだ。こちら
一方東京については滞在期間も長く、情報は充実している。マッカーサーの住居は今も赤坂にあるアメリカ大使館であった。そして毎朝10時半にそこを出て、執務室のある日比谷の第一生命館(第一生命日比谷ファースト)に向かった。
そして今回改めてそのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のあった旧第一生命館近辺を歩いてみた。
<旧第一生命館>
皇居のお濠沿いの第一生命館。建築家の渡辺仁らの設計により1938年に竣工。当初はギリシア風の円柱が立ち並ぶ意匠も立案されたものの見送られたという。戦時色が強くなってきて、華美なものは避けたのであろうか。(東京都選定歴史的建造物)
1945年9月8日、東京に入ったマッカーサーは、部下たちがいくつかの接収候補を用意した中、自ら足を運んで社長室、貴賓室などを見ると、他の候補を見ることなくここに決めた。
即決のマッカーサーは横浜では、ホテルで執務室の机の上に「未決」「既決」の2つのボックスを置いておいたら、「アメリカ軍に未決はない」と言って、ひとつを片付けさせたというエピソードを筆者は聞いた。
そして最上階である6階の社長室がマッカーサー元帥の執務室となり、現在も保存されている。この部屋の壁はすべてアメリカ産のくるみの木、床は楢・樫・桜・黒炭などの寄木細工でできた館内一の部屋であった。
当時は皇居の中が見えてしまうという理由から、これ以上の高い建物は許されなかったはず。
接収中の「第一生命館」には民政局が置かれ、この民政局において、1946年2月4日から12日までのわずか9日間で、日本国憲法の原型であるGHQ草案が作成されたと伝えられている。
マッカーサーは仕事熱心で夜遅くまで執務していた。誰宛にしてよいか分からないからか、個人的な窮状をマッカーサー宛に書いて送った例は多い様だ。筆者が知るだけでもドイツ婦人がいて紹介したが、ここで自分で読んだのであろうかなどと想像した。こちら またベルリンに駐在していた浅井一彦も直訴状を書いている。こちら
旧第一生命館 意外と車の切れるタイミングがあり、道路がすっきりとした写真の撮影はそれほど苦労しなかった。
第一生命ビルと奥は老朽化のため2月末で閉鎖となった帝国劇場
<帝国劇場>
隣の2代目の帝国劇場は谷口吉郎設計で1966年9月完成。1代目は接収はされなかった。
昔は大晦日にレコード大賞の発表が行われた。
<明治生命館>
1934年竣工。設計は岡田信一郎で彼は歌舞伎座、ニコライ堂修復などを手掛けた。
終戦後アメリカ極東空軍司令部として接収され、2階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用された。マッカーサーもこの会場で開催された会議に何回も出席している。
円柱のある古典主義様式で、横幅も第一生命館よりある。即決したマッカーサーも会議で訪れるたびに、こちらの方が華美だと思ったのではないか。
こうして戦災を逃れQHGに接収された建物。よく語られるのはアメリカは将来、日本を占領する際に利用すべき建物には爆弾を落とさなかったという一種の”神話”である。
アメリカは皇居には爆弾を落とさないということは正式に決定していた。それでも爆弾は落ちたが、それ以外は公式には爆撃を落とさないという建築物はなかった。
筆者の考えだが皇居に爆弾を落とさないためには、B29の乗組員は、隣接する建物も心理的に避けたのではないか。3000メートルの上空の飛行機から速度、風を計算して正確に爆弾を落とすのは容易ではないはずだ。
またスイス大使館が管理していたアメリカ大使館、アメリカ聖公会の聖路加病院など、上空からも見分けのつき易い建物も避けたとも思われるが、たまたま偶然の結果かもしれない。
サイドの入り口。(国の重要文化財)
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