先の『1938年 ヒトラーユーゲントの鎌倉訪問』の中で紹介した鎌倉海浜ホテルであるが、筆者はこれまでも何カ所かで紹介してきた。元はドイツ人との繫がりを調べる中で登場してきたのだが、その内に戦前鎌倉の近代ランドマークと自分の中で位置づけるようになった。
本編ではその誕生から、終焉までを紹介するものである。
<生い立ち>
鎌倉駅方面から若宮大路を由比ガ浜訪問に向かい突き当りの左、現在の鎌倉海浜公園(由比ガ浜地区)にそのホテルはあった。
元は1887年(明治20年)、長与専斎によって開院された我が国最初の海浜サナトリウム(結核療養所)として設立されたが、高コストのため2年ほどで経営が行き詰った。
その後海浜院ホテルとなり1906年には、イギリス人の建築家で「我が国建築界の父」と呼ばれたジョサイア・コンドルの設計によって建て替えられた(『ジョサイア・コンドル建築図面集』昭和56年 中央公論美術出版)。

ホテル俯瞰写真と海岸。「観光地と洋式ホテル」 鉄道省(国会図書館デジタルコレクションより)
上の写真の右側がこのメインエントランス。木製フレームが外に出るハーフティンバー様式。
第二十回関東東北医師大会実况写真帖 (国会図書館デジタルコレクションより)
1916年に軽井沢三笠ホテルを買収した明治屋の磯野長城氏が社長となり鎌倉海浜ホテルとなるが、その後経営者は入れ替わる。1923年の関東大震災では大きな被害は免れた。
震災で中断となるが、1925年には毎日2回、箱根の富士屋ホテルー鎌倉海浜ホテルー横浜グランドホテル(ニューグランドホテル開業は1927年)間を連絡する乗り合いバスが復活。外人旅行客には相当利用されたという。現存する富士屋ホテル、ニューグランドホテルとは肩を並べる存在であった。
『観光地と洋式ホテル 』鉄道省(1934年)によるとホテルの規模が分かる。決して大きくはない。
代表 春田助太郎
1人浴室無し 2部屋
2人浴室付き 24部屋
同無し 32部屋
<ドイツ人>
ホテル及び鎌倉に関係するドイツ人は次の様だ。
1880年、海浜ホテルが出来る前だが、医師でお雇い外国人エルヴィン・ベルツ博士が鎌倉を訪問し、保養地として最も適した土地と紹介。
1908年、医師で細菌学者のロベルト・コッホが弟子の北里柴三郎の招きで日本を訪れ、海浜ホテルに滞在する。彼も鎌倉を「避暑、避寒に適する」と語る。
2か月余りの日本滞在ではあったが、その後間もなくして「霊山園」(後に七里ガ浜に移転)にコッホの記念碑が建つ。(現存)
1938年9月、ヒトラーユーゲント宿泊したのは先に述べた。こちら
1941年9月 次の数のドイツ人が実質避難民としてホテルにいた。こちら この頃からは実質ドイツ大使館の借り上げ状態かと推測される。
蘭印(現 インドネシア)より 男 9名 女 51名
米州より 男 9名 女 10名
<川端康成>
川端康成は『化粧と口笛 』(1932年 朝日新聞)の中で次のように書いている。
「夏の社交の中心の海浜ホテルでは、例えばドイツ人の子供をドイツ語でからかうと、向こうはかえって(中略)
日本に住みついた外人客が主だとホテルの帳場は言うが
(中略)
この夏は70余りの客室のすべてが、長い滞在の外国人でふさがり通しだった。
鎌の海の季節は、梅雨晴れの海水浴場開きの頃、湘南庭球協会の(鎌倉テニス)トーナメントで始まり、8月31日に(海浜)ホテルの仮装舞踏会で終わる」
川端は海浜ホテルの宿泊客がほとんど外国人だと述べ、鎌倉の夏は海開きのころのテニストーナメントで始まり、海浜ホテルの仮装舞踏会で終わると書いている。

仮装舞踏会も行われたホールでしょう。
第二十回関東東北医師大会実况写真帖, 昭和5 国会図書館デジタルコレクション
<鎌倉とテニス>
鎌倉のテニスは大正9年(1920年)、アントワープのオリンピックで在住の熊谷・柏尾両選手が銀メダルを獲得したことと、同じ年に海浜ホテルがテニスコートを設けたことが契機となった。
鎌倉での最初のテニスコートは海浜ホテル内に設けられたのだ。
長い歴史を持つ「鎌倉テニストーナメント」の第1回が開催されたのは、1923年海浜ホテルのこのコートであった。
東京電気㈱広報誌「マツダ新報」によると1924年7月12日から海浜ホテル主催のテニストーナメントでシングルに(同社テニスクラブの)須永選手優勝とある。そしてこの年に鎌倉ローンテニスクラブは設立される。
1928年頃に念願の「鎌倉ローンテニスクラブ」の独自の3面のテニスコートが完成する。場所は鎌倉駅の西、現在のスーパー紀伊国屋の敷地であった。
女性ジャーナリストの先駆け羽仁もと子は1923年6月、次のように書いている。
「半時間前にここ(海浜ホテル)に着きました。
部屋は2階で、お正月に来た部屋のちょうど上かと思います。ヴェランダから、あのテニスコートと松林と、海を眺めるスタンドが真正面に見えます」
「あのテニスコート」とは前回訪問時から印象的であったのであろう。
<鎌倉カーニバル>
小説家久米正雄、大佛次郎らの奔走で1934年7月15日、鎌倉カーニバルが始まる。久米がフランスのニースで観た謝肉祭(カーニバル)に触発されたという。
13時、鎌倉駅をスタートして市内を練り歩き、5時半ごろ由比ガ浜海岸に着いてから祭り神を放つ。
19時、海浜ホテル砂丘でカーニバル夜会が開かれ、夜を徹して賑わった。
夜会の場所は海浜ホテルの敷地であった。この砂丘とは現在鎌倉市民カーニバルの「ビーチフェスタ」の行われる由比ガ浜海岸である。
<天羽英二>
外務省の天羽英二はイタリア特命全権大使を務めたのち、外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で収監、公職追放となる。
彼は海浜ホテルの常連であった。日記からいくつか拾う。これまでに紹介した事柄がいくつか登場する。(一部筆者による口語訳)
1936年3月29日
美代(妻)と共に鎌倉行き。
子供と四谷忠治その他と「ベースボール」遊び。久し振りの海岸の温風、心地よし。
昼、海浜ホテルで久保の母、子供一同、美代会食。 来栖(三郎)、外国人等知己の人々に会う。
→ホテルには外交官を中心とした外国人が多く滞在していたことが分かる。
7月21日 (鎌倉にて)
稀なる暑気が続く。朝10時より1時まで水泳。海岸大賑わい。
昼は柳谷叔父の招待で久野医師と共に海浜ホテル。鎌倉カーニバルで鎌倉雑踏。(人出は)20万人と称せられる。
→鎌倉カーニバルは20万人の人出とは一般にも言われた。
8月24日
海浜ホテルで晩餐。「ホテル」で舞踏会あり賑わう。
→川端の書く8月31日の仮装舞踏会の前にも、舞踏会は頻繁に行われたか。
1937年4月3日
海浜ホテルにてサンドイッチを準備してもらい、美代、子供等と切通、「ゴッホ」墓前献花、海浜散歩、江の島方面に散歩。いたる所(花見の?)酔客。
→この「ゴッホ」とは先に紹介した、細菌学者のロベルト・コッホの記念碑のことではないか。
<まとめ>
こうした様々なイベントを総括してか『躍進日本大観』(1938年)は次の様な言葉を残している。
「今日のモダーン鎌倉であるが、就中海浜ホテルの存在は海浜ホテルの存在は鎌倉のモダニゼーション(現代化)に重要な主役を演じたことを否めない」
この鎌倉を象徴するホテルは、終戦とともに接収した米兵の火の不始末で1945年12月に焼失してしまう。
その後再建されることはなく、かつての場所に碑が立つのみである。
海浜ホテルのあった場所の現在。記念碑と江ノ電の「タンコロ」(1931年製)が展示されている。
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