戦時中の外国人に関し、筆者が利用する史料の多くは外務省外交史料館(アジア歴史資料センター)、次いで国会図書館である。そこでは神奈川県の情報は東京、兵庫に比べてよく残っている印象だ。
そしてすでに「日本の宣戦布告と横浜の敵国外交官」、「開戦直後の横浜の外交官」などの文章を書いてきた。
今回は新たに見つかった史料「昭和16年居住外国人国籍別人口調査等 神奈川県」をベースに、日本が米英に対し宣戦布告する直前の昭和16年(1941年)を中心に外国人の数、動きをみていく。
1 外国人の数(1941年9月30日現在)
英国 262名
ドイツ 620名
アメリカ 147名
中華民国 2913名
他 892名
計 4834名
(他は主に中立国で白系ロシア:234名、フランス:115名、スイス:62名、ポルトガル: 53名、トルコ:25名他)
⇒イギリス、アメリカ人が本国に引き揚げ、西洋系ではやはりドイツ人が圧倒的に多い。ロシア革命を逃れ、日本まで来た白系ロシア人はドイツ人以上だ。
2 アメリカ人関係
アメリカ政府(大使館?)は自国民にすでに4回の引き揚げ勧告を発令した。
第1回 1940年10月16日
2回 同年11月10日
3回 1941年 2月14日
4回 同年 9月12日
その結果次の様な居留者数となる。
1939年12月末現在 400名
1940年12月末 335名
1941年9月末 147名
⇒何回かの引き上げ勧告にもかかわらず帰国しなかった者は、高齢者、日本人と結婚していた者が多い。家族を残して帰国は出来なかった。
3 ドイツ人関係
一方同盟国ドイツ人はどうだったであろうか?
一戸を構える者 (11月30日)
山手警察署管内 487名(8)
加賀町署(山下町) 34名(1)
鎌倉署 23名
葉山署 11名
他 41名
計 596名(9) 先の史料とは若干数字が異なる
括弧内は従前より居住するドイツ系ユダヤ人
⇒圧倒的に山手地区(含む本牧)に居住した者が多い。
ドイツ系ユダヤ人の数まで把握している。彼らは1942年1月にドイツ国籍をはく奪される。
一戸を構えない者 (11月6日)
ホテルニューグランド 86名 (蘭印と米州より)
バンドホテル(新山下) 45名 (蘭印と米州より)
ブラフホテル(山手) 24名 (蘭印より)
インターナショナルスクール 33名 (蘭印より)
一般病院 2名 (蘭印より 入院加療中)
海浜ホテル(鎌倉) 81名 (蘭印と米州より)
殿が丘修道院(茅ヶ崎) 19名 (全員米州より)農業従事中
計 290名(男 72、女218)
⇒彼らは本来ドイツに戻るべきところ、独ソ戦の勃発で帰国の道を閉ざされた。
蘭印(現インドネシア)に居住していた婦女子が圧倒的に多い。
同盟国のドイツ人であるがいわば難民であった。彼らは日本の敗戦まで帰国出来ない。
由比ガ浜のかつて海浜ホテルのあった場所には、当時を偲ぶ石碑と、1931年年製の江ノ電の通称「タンコロ」が静態保存されている。
ナチスドイツの迫害を逃れて、ユダヤ人は日本にもやってきた。
避難してきた国別
ポーランド 289名
ドイツ 47名
他 18名
計 354名
避難ユダヤ人出国状況
北米 256名
豪州 13名
カナダ 15名
上海 45名
他 25名
計 354名
⇒また避難民354名は、誰も横浜には住みつかず、全員出国済みとなっている。第三国に行くというのが、日本政府の受け入れ条件であった。
この数はいつからいつまでの間であるか正確人は不明であるが、杉原千畝のトランジットビザだけでも数千人が日本逃れてきたというから、横浜にはさほど多くのユダヤ人は避難してこなかったと言えそうだ。彼らの多くは敦賀港に着き、神戸から北米に向かったか。
3 最後の引き揚げ船
いよいよ日米開戦近しという事で、定期航路はすでに閉ざされていたが、日本郵船は開戦まで2か月を切った10月中旬に3隻をアメリカ、カナダに派遣した。開戦前最後の引き揚げ船である。横浜からの乗客は以下の様だ。
船名 龍田丸 氷川丸 大洋丸 計
横浜出帆 10月15日 20日 22日
純外国人 12 25 12 49名
日系外国人 112 42 29 183名
純日本人 18 9 3 30名
再渡航邦人 316 67 83 469名
(旅券なし 1世)
二重国籍邦人 168 73 70 311名
(米国旅券 2世)
総計 626 216 200 1042名
他に神戸より外国人2名、邦人140名乗船
⇒1000人強の往来があったが、殆どはアメリカに戻る日系人であった。
米国人を中心とする外国人は49名のみであったのは、運行が日本の船会社であったのも一因であろう。
こうして9月末に横浜に暮らした敵国人はそのまま日本で開戦を迎え、その多くは抑留される。
大洋丸に乗り込んだ純日本人の3人の内、ふたりは開戦前最後に欧州入りした外交官徳永太郎夫妻であった。(筆者の「徳永太郎・下枝 若い外交官夫妻はいかに欧州戦争を体験したか」で紹介)
現在山下公園に係留されている氷川丸。多くの写真が撮られるのとは反対側からの撮影
このあと間もなくしてして、日本は米英に宣戦布告をする。残留した外国人の運命は、冒頭に挙げた2編を参照いただきたい。
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「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちら


