先日アップした「バチカン公使館の疎開と『小林一三日記』」の中で、バチカン公使館と白百合学園の疎開先の住所が共に強羅1320番であったので、両者は同じ建物に暮らしたのかと想像して書いた。

 

筆者が調べている軽井沢では基本は別荘1軒に一つの「ハウスナンバー」が振られていた。住所は簡潔に軽井沢XXX番。それによって漢字の読めない外国人でも容易に場所を告げられ、郵便局員の仕事は軽減された。

 

ところが箱根に疎開した外国人の住所を調べると、強羅は1300番1320番がかなりの数に上る。どうも軽井沢と異なる様だ、というのが今回の調査の発端であった。

 

最初に強羅別荘の歴史について調べた。

土地分譲は明治45年(1912年)に現在の箱根登山鉄道(株)によって始まった。分譲地はケーブルカー線の南側(左側)で、基盤目状に整然と区画された分譲地は148画に分かれ、1区画毎に温泉と水道付で売り出された。

また隣(ケーブルカー線の北、右側)は大正8年(1919年)堤康次郎が約10万坪買収し、翌年に箱根土地(株)を設立し、別荘地として分譲された。

 

そして当時の「足柄下郡強羅」とは、ほぼこの2別荘地区だけを指すようだ。そして前者が1300番でいわば一丁目、後者が1320番で2丁目あったのだ。実際にゼンリンゼンリン住宅地図で現在の住所を見ても、その流れは確認できる。

”1300番”は離れて6軒点在している。恐らく昔からの居住者で住所が変わっていないのであろう。他は新しく皆「1300-XXX」の様な枝番の付く表記である。

 

ただしよく知られた強羅環翠楼(旧岩崎康弥別邸)は枝番がゼンリン地図には付いているが、ホームページの住所は1300番となっている。隣りの強羅花壇(旧閑院宮別邸跡地)も同様だ。由緒ある旅館などは、枝番なしで郵便も届くのであろう。

 

箱根登山ケーブルカー 強羅駅ー公園下駅 線路を挟んで左が1300番、右が1320番

 

こうした知識を元に外国人の強羅地区(当時の足柄下郡強羅)への疎開状況を調べると、次のようなことが言える。

 

1300番

1914年に開園した強羅公園には「公園ホテル」(現存せず)があり、そこには山手のセント・ジョセフ カレッジが1944年4月に疎開した。日本の学校より疎開がやや早いのは、この時山手の学校が軍に接収されたからであった。そういう事情であったためか日本側はトラック30台分の荷物を運んでくれたという。

 

同校はカトリックのマリア会によって運営された学校で、校長のアルベルト・ヘグリ以下17名のフランス人教師が疎開した。他にルクセンブルク人とスイス人の教師もいた。

 

「良かったことはホテルには温泉があった」と教師の一人クサビエル・ベルトニエ( Xavier Bertrand)は知人に書いている。

1944年7月には強羅で卒業式が行われた。ヘグリ校長と6名の卒業生の写る写真が残っている。鉄道の運行も不安定な中、横浜から強羅の学校に通った生徒もいたという。

 

他には次のような表記で各別荘にドイツ人が疎開した事が分かる。

谷本別荘 ドイツ人

竹内別荘 ドイツ人科学技術者

磯谷別荘 ドイツ領事館員

片岡別荘 ドイツ人

内田別荘 ドイツ領事館員

別荘名無し (若干あるが省略)

 

住所は正しくは次のように東西南北に番号が付いたと思われる。こちらは空き家であったか?

南7号 ドイツ人

 

また終戦の歴史の舞台のひとコマにもなったヤコフ・マリク大使以下のソ連大使館員が数十名疎開した「強羅ホテル」も1300番(当時)だ。

かつて強羅ホテルがあった場所の「季の湯 雪月花」

 

1320番

白百合学園の疎開地であった。

学校のホームページによるとこちらもセント・ジョセフ同様に1944年4月、ここに疎開学園が発足した。東京在住の外国人シスターも、疎開希望の生徒たちとともに、強羅へと避難した。

 

在校生の保護者の口ぞえで、箱根強羅にあった旧男爵別荘と支援者の土地約300坪を購入した。学校は個人の別荘であった。

 

最初は東京からの疎開者を受け入れていた藤沢、片瀬の白百合も危険が迫り、こちらに合流する。戦後は戦災で戻る家の学童も多く、1949年に「函嶺白百合学園」が設立された。

 

同校は現在も1320番で枝番はない。現在も長い時間かけて遠距離通学する生徒も多い様だ。

 

同校はシャルトル聖パウロ修道女会により運営され、フランス人が母体であった。先のセント・ジョセフ カレッジと合わせ、多くのフランス人のカトリック、教育関係者がこの強羅の地にいたことになる。

 

なお1320番に疎開したことが判明している駐日ローマ教皇使節(バチカン公使)パウロ・マレラと秘書だが、これ以上場所の詳細は分からない。しかし同じカトリック関係者で、イタリア語とフランス語は親和性が高く、両方でコミュニケーションも可能というので、相互に交流していたと想像する。

 

また1320番の方が1300番に比べて圧倒的に疎開者が多い。日本人所有者は善意で、自分は住まずに外国人に貸したか。

 

別荘名無し  ジョージ・コモル一家  

(ハンガリー人で戦後山下町に「ザ・ホフブロウ」を開いた)

別荘名無し   デンマーク人

常盤旅館 ドイツ領事館員  (この旅館は現存しない)

勝俣別荘 リリー・アベック他  (ナチス寄りのスイス人女性ジャーナリスト)

田中別荘 イリス商会員+家族

中島別荘 ドイツ人2名

村上別荘 ドイツ人

針谷別荘 ドイツ人

矢崎別荘 ドイツ人

栗原別荘 ドイツ人

斎藤別荘 ドイツ人ヤーガー商会員他

高野別荘 ドイツ人ヤーガー商会員+1

片岡別荘 ドイツ人横浜領事館員

岡口別荘 ドイツ人スコラ商会員+家族

本田別荘 ドイツ人シュミット商会員+

小林別荘 ドイツ人イリス商会員

斎藤別荘 ドイツ人

福田別荘 ドイツ人イリス商会員

結城別荘 ドイツ人ウィンクル商会 

吉本別荘 ドイツ人

畑中別荘 ドイツ人

木村別荘 ドイツ人

別荘名なし ドイツ人領事館員他一部省略

 

箱根のドイツ人の別荘。詳しい場所は不明

 

このように多くの外国人が、疎開し終戦を待ちわびていた強羅であった。

皆さんも箱根に出かけ、強羅駅から「箱根登山ケーブルカー」に乗る際は、戦時下の光景を思い浮かべていただけると幸いだ。

 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら (アマゾン)

『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

こちら