アジア歴史資料センターのデータベースは筆者にとって非常に興味深い史料が埋もれている。知りたいと思っていた、チェコ公使の軽井沢の別荘の番号が、偶然見つかることがある。まずはこういう史料が欲しいと常に思っていることが大切だ。
ただしこのデータベースはグーグルのように検索窓があるだけのなので、「あの史料どこにあったっけ、もう一度見たい?」と思った時に探し出そうとすると、見つからないものは本当に見つからない。今回紹介するのもそんなひとつであった。
日本人の回想を読むと、軽井沢の雲場池のほとりのニューグランドホテルでは戦前、しばしば大きなパーティーが開催されたという。ここは横浜のニューグランドホテルの支店で、夏場のみの営業であった。
雲場池。この左奥にニューグランドホテルはあった。
開戦一年程前の1940年の夏、料理人として働いた平田醇(じゅん)は述べている。
「ひと夏軽井沢のロッヂに行きました。20室位でしょうか。そこが混むんです。外国人ばっかりで、毎週土曜日にはダンスパーティーが開かれていました。調理場には料理人が5人くらい、冷蔵庫も電気じゃなくて氷を砕いて冷やすので大変でした。」
外国人は開戦直前までダンスに興じていたことが分かる。
実際に1937年8月7日、長野県知事近藤駿介がこうしたダンスパーティーを内務大臣、外務大臣に報告していた。次のような内容である。
「アメリカ大使館付き陸軍武官補佐官 ウィリアム・シー・クレインは帰国を命じられたようで、7月24日午後7時よりニューグランドホテルにおいて、彼の送別会が行われた。
出席者はグルー大使他同国館員その他で71名(内日本人数名)であった。
終了後の午後9時より同ホテルで日本人、外国人合わせて百数十名が参加して、ダンス夜会を催して、深夜2時半に散会。出席者の内主たる者は以下の通り」
警察はホテル側に命じ、参加者全員に名前を書かせたようだ。アメリカ人の名前はジョセフ・グルー大使夫妻以外は特定は難しいが、100名近くはアメリカ人であろう。ほとんどは外交官とその夫人である。よくもこれほどのアメリカの外交官が軽井沢に集まったものだ。
1名 G.D.アンドリウス夫妻には「要注意人物」の印が付いている。
その参加者リスト中に日本人の名前がある。次の女性たちである。彼女らはパーティーに参加したことで、警察には警戒されたであろう。分かる範囲で解説を添える。
1 朝吹(登水子)嬢
軽井沢を語るのに欠かせない朝吹家のひとりで、父親常吉は別荘「睡鳩荘」を建て、現在はタリアセンにて保存されている。
タリアセンの睡鳩荘
2 永井節子嬢
外務次官、ドイツ大使などを務めた永井 松三の娘であろう。
3 永井朝子嬢
同上
4 森田千代嬢 不明
5 尾崎雪香嬢
東京市長を務めた尾崎行雄と英子セオドラの娘。軽井沢には「莫哀山荘」を構えて、外国人らも迎えた。
雪香は相馬家第32代当主相馬恵胤と結婚する。
雪香の母親セオドアの元住まい。戦前に豪徳寺に移築後、現在公開されている。
6 ワイ西村嬢
文化学院を創設した西村伊作の娘。ワイ(Y)で始まるのはユリ(次女)とヨネ(三女)がいるが、ユリは1936年にパリに留学に出るので、ヨネであろう。ヨネは終戦前年にスウェーデン人と結婚する。
奇しくもというよりは必然か、後世に名の残ることになる日本の子女の参加したパーティーであった。
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