堀辰雄の小説『美しい村』に、

「別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩していたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞こえて来た。(中略) 

 

バッハのト短調の遁走曲(フーガ)らしかった」とあり、現在軽井沢駅の方から万平通りの森裏橋を右に直角に折れるの道は「堀辰雄の径(フーガの径)」として立派な道標もある。

 

しかし筆者には腑に落ちない点がいくつかあり、拙著『又心の糧(戦時下の軽井沢)』において「フーガの径はどこ?」という内容で文章を書いた。本編はその自身の疑問に対する答えと考える。

 

「フーガの径」の案内

 

『美しい村』は1933年(昭和8年)『大阪朝日新聞』6月25日号(日曜日)に、まず「山からの手紙」(のち「序曲」)が掲載され、同年、雑誌『改造』10月号(第15巻第11号)に「美しい村 或は 小遁走曲」が発表される。

 

つまり1932年から1933年6月頃にチェコの公使館があった場所が分かれば、答えは自ずと出るわけである。

 

そして今回外交文書にその答えを出してくれる史料が見つかり、それを元に答を書く。

「在本邦各国外交官、領事官及館員動静関係雑件」という文書綴りに、各県の県知事の名前で、訪問した外国人(外交官)について報告している。宛名は内務大臣、外務大臣他で多くは「特高秘」となっている。本編では長野県の部分をピックアップする。

 

戦災もあり文書は完全に揃っているとはいえないが、1927年~1939年の間のものが残る。タイミングを考えると1925年(大正14年)に制定された治安維持法を受けての措置と考える。

 

では主要な文書を見ていこう。その後に筆者の考えを述べる。

1929年7月15日

チェコスロバキア公使カーレル・ハラは家族同伴本月11日、軽井沢に来た。別荘軽井沢861番に避暑のため滞在中。

同年9月11日

家族同伴、本月10日午後零時15分、軽井沢駅発列車にて東京に向け退軽。

 

1930年7月29日

カーレル・ハラ公使

21日午後11時12分軽井沢駅着列車にて到着、軽井沢別荘903番に入り、先着の家族と同居滞在中。

 

1932年4月27日 警視総監発

後任のフランチシェク・ハヴリーチェク公使が、フランス郵船のポルトス号で横浜港に着く。代理公使であったクルプカ、名誉領事のアントニン・レーモンドらが港で出迎えた。

→チェコ人の著名な建築家レーモンドは、この頃アメリカ国籍を保有し、チェコの名誉領事を務めていた。彼については別途述べる。

 

同年5月9日

ハヴリーチェク公使とハヴリーチェクと一等書記官クルプカ両名が、この暑の避暑別荘借り入れのため軽井沢を訪問する。5月7日午後5時着列車にて軽井沢に来る。軽井沢ホテルに投宿し2、3別荘を見分の上、8日午後2時27分発列車にて帰京する。

→チェコ公使館、または個人で別荘を持っていたのではなく、毎シーズンごとに契約をしていたことが分かる。

 

同年10月5日

ハヴリーチェク公使は7月9日以来別荘903番に滞在。

 

1933年6月13日

ハヴリーチェク公使は邦人使用人3名を同伴し、6月8日避暑のために午後9時32分着の列車にて軽井沢に来る。別荘903番に入るが、9月中旬まで滞在の予定の趣き。本人はその間も時々は上京のはず。

→公使レベルだと3人くらい使用にを同伴したようだ。コック、ハウスキーパー、書生

か。

 

9月30日 ソ連邦大使のスパイの疑いのあるチェコ公使に関する件(警視総監発)

→ハヴリーチェク公使はソ連大使館に出入りし、ソ連のスパイではと日本側は疑って厳しく監視している。

 

1937年10月3日

ハヴリチェク公使 別荘1415番滞在。

9月14日頃「プラハ」宛別記のごとき暗号と認められる電報を発信せり。

→軽井沢郵便局からであろう、発信されたアルファベットの並ぶ暗号文も添付されている。

 

1937年11月25日 チェコ名誉領事

妻子同伴本月14日午前11時59分、軽井沢駅着下り列車で、静養のため軽井沢町新生療養所に来て滞在し、同21日午後3時44分軽井沢発上り列車にて帰京するが、滞在中の動静視察するに格別容疑の点無し

 

1938年7月11日 

ハヴリチェック公使 別荘1415番滞在

別荘に引き続き滞在中にして格別容疑の点無きも、本月8日東京駐在同国公使館より、別記(省略)のごとき、都下主要日刊新聞紙に掲載された「ソ連邦陸軍三等大将 リュシコフの満州国への越境亡命事件」に関する論説を英訳した通信を郵送させた。

→その後チェコはドイツに併合され、国が無くなり、ハヴリチェック公使は翌年日本を去る。

 

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以上を整理するとチェコの公使は、

1929年は軽井沢861番に滞在した。そして1930年から33年まで903番にいたことが確認できる。

いつからかは正確には不明であるが、1937~8年は1415番であることが分かる。最初のふたつは比較的近いが、どれもまさに「水車の道ほとり」とは言えない。

 

いずれも公使個人としての滞在で、チェコの公使館という記述が記録のどこにもない。そしてこうして3つの別荘をシーズンごとに借りたことが、後年「ここそが公使館であった」という異なる証言が生じた理由であろう。

 

そして堀辰雄が『美しい村』を出版したのは1933年であるから、その時のチェコ公使はハヴリチェクで別荘は903番であることが筆者の結論だ!

903番はその頃ドイツ人エルゼ・シフナー夫人の所有であった。夫はドイツ人貿易業者のリヒアルト・シフナー(Richard Schüffner)で、横浜、大神宮山ヴィラ・サクソニアという風車のある立派な洋館に住んだ。

 

「昭和2(1927年)~3年頃には(シフナー(家は)すべてを処分して横浜を去ったと思われます」(WEB「横浜古壁ウォッチング」)とあるので日本を去って、その後別荘も空き家となり、公使は借りることが出来たのであろう。

 

シフナーであれば別荘にピアノを置く財力は問題ないと思うが、当時はかなり細い道をまだあまり普及していない車で運び上げたのであろうか?調律師は高崎あたりから来るのか?

またフーガを弾いたのはハヴリチェック公使自身か?それとも一緒に来日した26歳のイギリス人の秘書か?こうした疑問もいつの日かまた解けるかもしれない。

 

なお1929年の861番は1930年はJ. F. Ray(宣教師)の別荘であった。1970年の「信濃教育」という雑誌に書かれた公使館の場所は「後に宗教関係の所有になった」という。とするとその別荘は865番で、R. E. Mossの所有であり、少しずれるが非常に近い。

 

1937年に登場する1415番は今日の「堀辰雄の径(フーガの径)」に面している。ただし時期的には『美しい村』の出た後であるが、チェコ公使が住んだことがあるという意味では正しい。

 

堀辰雄は1941年に1415番の向かいの1412番に住む。向かいに以前チェコ公使が住んでいたことは聞いたのではないか。

その前の堀の別荘は1938年が835番、39年が638番、40年が658番であったと「東京紅団」というホームページに出ている。

 

堀辰雄の暮した1412番の現在

 

尚1415番は終戦時はランゲ、斎藤秀雄の元夫人の別荘であることは「音楽家 斎藤秀雄と軽井沢」で紹介した。その後ドイツ人を奥さんとする日本人バイオリニストの手に渡る。

その後筆者の書籍を読んだある方から、「自分はその一家(娘)がここから引っ越していく様子を見ていました」という興味深い話を聞かせていただいた。

 

これがこれまで紆余曲折したチェコ公使の別荘の事実である。

お読みいただきありがとうございました。スマホでこの長文を読むのはかなり骨が折れるのではないでしょうか。

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