12月9日に一般公開された荻窪の「荻外荘(てきがいそう)」は、内閣総理大臣を3度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、1937年の第一次内閣期から1945年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所。早速訪問したが「国指定史跡」に指定で、建造物としての顕彰ではないのが意外であった。

 

近衛は同時に軽井沢に別荘を持ち、そこでも多くの要人と会談を持っている。本編ではその両者を並べてみていくものである。

 

1 荻外荘

 

南向きの一段高い位置に建つ。正面のガラスは建設当時のものとのこと。

建物の中にはかなりの訪問者がいたが、一旦敷地の外に出てこちらまで来て、全景を撮影する人は殆どいなかった。

 

サイドビューも美しい。今入館料を払う場所ではなく、手前が当時の玄関。

近衛は1937年、大正天皇の侍医を務めた入澤達吉からこの別荘を購入した。設計は築地本願寺を設計した伊東忠太。近衛は別荘としてではなく、住居として利用した。

 

1940年7月には、外相と陸相にそれぞれ就任予定だった松岡洋右と東條英機らを呼んで、日独伊の連携強化を話し合った「荻窪会談」を開催した。

左から近衛文麿総理、松岡洋右外相、吉田善吾海相、東條英機陸相が座る写真が残る。その写真を元にほぼその通りに再現した部屋。背後のガラス戸棚、テーブルクロスの色なども往時に合わせた。

1941年、開戦2か月前には「荻外荘会談」が開かれたが、近衛内閣の内閣総辞職に至った。

 

書斎。日本の敗戦後、近衞はGHQにより巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日未明に、青酸カリをあおって服毒して自殺した。この部屋も当時のまま保存されている。

 

応接室。中国趣味があった様。

平日にもかかわらず訪問者は多く、10人位のボランティアの方が各部屋で説明にあたっていた。人々の関心の高さを窺わせた。

 

2 旧近衛文麿別荘(軽井沢)

 

1923年頃に「あめりか屋」によって建てられた別荘で、近衛文麿が第1号別荘として購入。1932年に売却されるが、荻外荘購入の前の事である。建物は南原に移築され、その後離山公園内の現在地に移される。移築保存は日本では古くから行われてきた手法。

 

「市村記念館」として市村今朝蔵関係の展示が主で、近衛関係は少ない。

一方「あめりか屋」の最盛期であった代表的建築で、数少ない現存例として建物としての価値が高い。

 

3 近衛山荘

 

その後に建てられたのが「近衛山荘」であった。

現在「近衛山荘」という表示が残る。

 

「山荘に想いを練る近衛文麿公」として当時のニュース映画に登場する。

1940年の夏、まさに萩外荘で先に紹介した「荻窪会談」が行われたころ、避暑先の軽井沢で新聞記者団と会見、新政治体制に対する所信をこの別荘で披瀝した。建物には「草亭」と書かれた木の札が見える。こちらが当時の山荘名か。

 

終戦直前には東郷茂徳外相が近衛を訪問する。
「自分(東郷)は軽井沢で7月8日に近衛公と会談し、前記(戦争終結に向け特使として近衛をモスクワに派遣する件)の趣旨を説明し、モスクワ行きについてもその内諾を取り付けた」

と書いている。こちらもこの別荘であろう。

 

しかし近衛の和平特使は実現せず敗戦、そして話からわずか5か月後に、先の萩外荘での近衛の自殺へとつながる。

12月6日に発出された近衛の逮捕命令を、彼はこちらで聞いたという。また死後、こちらにも献花台が設けられたようだ。

このように萩外荘と近衛山荘は、車の両輪のように日本の開戦から終戦まで、歴史を突き進んだのであった。

 

現在の建物は戦後に建てられたものか。

 

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