チェリストで指揮者の斎藤秀雄は、門下生の小澤征爾らが出演する「サイトウ・キネン・フェスティバル」で、名前が知られている。現在は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」と名前を変えているが、毎夏、長野県の松本市で開催されるので、斉藤は松本に縁があるのかと思っていたが、軽井沢と縁があることが判明した。
『嬉遊曲、鳴りやまず』(中丸美繪)を参考にしつつ、後半を中心に筆者の調査結果などを織り交ぜる。
斎藤は1923年にドイツに留学する。そしてベルリンの中心から近い、フリーデナウ地区イル通りにあるランゲ家に下宿する。ランゲ家の娘がシャルロッテであった。当時しばしば見られたパターンだが、その下宿の娘と斉藤は結婚する。1927年、斉藤が25歳、シャルロッテが18歳の時であった。
ランゲ家は父親がツァイスの技師で、日本に一人残って滞在していたが、1923年の関東大震災で亡くなっていた。よってシャルロッテと母親、そして斎藤の3人で結婚したその年に日本に向かった。
シャルロッテは日本で病を得て、間もなく母と娘でドイツに帰る。斎藤は1930年に2度目のドイツ留学をして、再びランゲ家で一緒に暮らす。
1932年、斉藤は帰国するが、病気のシャルロッテはドイツに留まる。その後1934年にシャルロッテとの離婚が成立し、斉藤は小畠秀子と再婚する。
それから時が経ち、斉藤は通称陸軍富山学校の教官となる。1941年には日本は英米の戦争に突入する。
軍楽隊関係者は月に一度だけ列車の切符を手に入れることが出来た。斎藤はそれを使って軽井沢に出かけた。そこには別荘を持つ妹夫婦が疎開していた。またユダヤ系の指揮者ローゼンシュトックがいた。斎藤メソッドのモデルとなった指揮者の1人でもある。
ある日、斉藤はゲートルを巻いた姿で姿で渡辺暁雄(指揮者で妻はフィンランド人の声楽家シーリ)と軽井沢を散歩していた。そこで意外な人の姿を見た。それはドイツにいるはずのシャルロッテであった。
なぜ日本にいたかというと、斉藤と結婚したシャルロッテは日本国籍となり日本のパスポートを所持していた。そして外国人ゆえにナチスドイツにいられなくなり、母親とまた日本に来たのであった。
ここからは筆者の考察である。
1945年当時、軽井沢にいた外国人を調べてみると、
「軽井沢1649番にケーテ・ランゲ(Kaete Lange) 60歳 秘書」とある。場所は六本辻の近くで、他のドイツ人たちとは離れた場所である。ランゲは珍しい名前ではないが、数百名いた軽井沢のドイツ人の中では唯一のランゲ姓だ。
なお箱根で終戦を迎えたドイツ人の中には、シャルロッテ・ランゲという女性がいた。念のため国会図書館に出向いてGHQの資料を調べた。分かったのは彼女は蘭印(今のインドネシア)引き揚げの女性で同姓同名の別人だと判明。
一方ケーテ・ランゲは60歳という年齢を考えてもシャルロッテの母の可能性は高い。母と共にシャルロッテの名前がないのは、結婚して日本国籍となったため、一緒に住んでいても外国人リストには載っていないと考えられる。さらにはシャルロッテのみならず、母親も来日して日本に帰化した可能性もあるが、これは斉藤家の援助なしには難しいのではないか。
またケーテは1937年の在日ドイツ人名簿に東京在住で載っているので、それより前に親子で日本に来たことが分かる。
この軽井沢1649番に関して、筆者はすでに『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』の中でGHQの史料に基づき書いているが、「ドイツ人資産」として、写真も残っていて紹介している。しかしながら斉藤の義理の母であろうとは気づかなかった。今回改めてここがシャルロッテの軽井沢の住まいと考える。
疑問点もある。多くのドイツ人が貸別荘に住んだ中、彼女は別荘を所有していた。さらには1415番と合わせて2軒である。斉藤は軽井沢で帰国後初めて会ったとすると、2軒の別荘の購入資金はどこから出たのであろう?この頃ドイツの資産を処分して、日本に大金を持ち込むことが可能であったのであろうか?
そして購入の際の煩雑な手続きは、外国人には到底無理である。日本で斉藤以外の日本人の誰かが資金を提供し、手続きを代行したのであろうか?
根本にはシャルロッテ親子が日本に来て暮らしていたことを、本当に斉藤は軽井沢で会うまで知らなかったのかという疑問も残る。よってケーテ・ランゲ夫人に関しては継続して調査したい。
なお今の「堀辰雄の道」を登った所にある、ランゲが所有するもう一つの別荘1415番は、ドイツ人にはなじみのある番号である。第二次世界大戦の初期まではオイギン・オット、ドイツ大使が別荘として利用していて、終戦までドイツ人が暮らした。
齋藤の東京の家は、今の国立劇場の辺りにあった。米軍の空襲で全焼した。斎藤は焼けた土地の一部を売却し、シャルロッテへの慰謝料とした。これでかつての妻との繫がりは完全に清算されたという。
軽井沢でシャルロッテは体をほとんど動かせず、横になったまま訪問したドイツ夫人と話したというが、先の清算金を得て、間もなくして亡くなったのであろうか?
1947年のGHQによるドイツ人の祖国への送還者のリストにケーテ・ランゲの名前がある。この時に帰国したのはケーテひとりだったのだろうか。
少し横道にそれるが2回目の留学時、斎藤は週に一度はフンボルト大学に留学していた三村征雄(後に東京大学名誉教授。本の「征夫」は誤植)、たか子夫妻宅を訪問している。筆者がしばしば話を聞かせていただいている三村道夫さんのご両親である。そして「三村道夫 神戸から軽井沢への鉄道による疎開」という記事なども掲載している。
また同じく『嬉遊曲、鳴りやまず』に登場して戦後、桐朋学園大学での斎藤の授業でピアノ伴奏を担当したピアノ科の五十嵐玲子は、筆者が『ベルリンオリンピックの証人』として紹介した加藤綾子さんの娘さんである。(『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三篇』)に収録)
このように筆者とも繫がりもある前掲書であった。
そして戦後の1956年に『指揮法教程』の全面的な改定版を発行するに際し、「斉藤は指揮教室の生徒を全員集めて、ひと夏軽井沢にこもった」と軽井沢が登場する。軽井沢が好きであったのかもしれない。
以上
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