<序>
 
横浜市中区の山手町は古くは外国人の居留地に指定され、時代を先取る外国人が暮らしてきた。しかし1930年代に入り、日本が米英と対峙するようになると、英米人を中心に本国に引き揚げた。
 
旧居留地の研究はこのあたりの時代で終わるようだ。その後実際に日本が米英に参戦すると、山手の地は枢軸国と中立国人のみが住み続けるが、数の主体はやはりドイツ人であった。しかし戦局が悪化してくると、1943年9月29日、山手を含む地域が絶対居住禁止区域に制定され、全外国人に退去命令が出された。
 
軍事機密である港に出入りする船舶を見ることが出来ることが出来るからだ。同盟国ドイツ人もその対象であった。当時外国人を管轄した日本の外事警察は、これらの人物について詳しく記録を残している。
 
それによると強制疎開対象の世帯数は508家族で人員計1227人あった。その内ドイツ人が248家族 523人と約半数を占めた。
 
それにしてもこれほどのドイツ人が、戦時下、何を生業にして横浜地区で暮らしていたのであろうと、リストを詳細に見るうちに、あることに気が付いた。

例えば次は山手60番地のドイツ人である。
エドワード・ビー・レベダック 商社員 家族3
マルカレッタ・ケムベン   無職  家族2
ルース・ケムラー      無職  家族1
ルース・ウスラー・バイパー 無職  家族1
ヒルデ・シャラー      無職  家族2
イルゼ・タムヘン      無職  家族1
フルーク・ツオツク     無職 本人のみ
 
親子2代日本に暮らす商会員レベダックを除くと皆無職で、世帯主はマルカレッタ、ヒルデ、イルゼなど、どれも女性の名前だ。そして家族がいる。これは他にも何か所にも見られる現象で、山手の世帯主のドイツ人は、半分以上が無職の女性であった。旧居留地で、最も恵まれた外国人が暮らしてきた山手地区で、これはどういう事情からであろうか? 
 
結論を先回りすると、彼女らは蘭印引き揚げドイツ人婦女子であった。そうした婦女子の数は日本全土で600人以上に上る。どんな経緯で日本にやってきて、留まったのか?また滞在中は日本人と交わることもなく、ひっそりと暮らしたようだ。本編ではそんな歴史の裏道を歩んだドイツ人婦女子に光を当てたい。
 

<蘭印ドイツ人婦女子>
 
今日用いられることのない“蘭印”とは、オランダ領東インド諸島の通称で、かつてオランダが支配した植民地国家を指し、今のインドネシアの領土にほぼ等しい。
 
1940年5月10日、ヨーロッパではドイツ軍がオランダに侵攻し17日にはオランダは降伏し、亡命政権がロンドンに樹立された。
 
この時、蘭印政府はオランダ亡命政権側に付き、ドイツに降伏することなく、逆に当地のドイツ人を拘束、抑留したのである。蘭印政府つまりオランダ側の準備は周到で、開戦と同時に全ての男性と16歳以上の若者はジャワ、スマトラ、ボルネオのキャンプに抑留された。その際ドイツ帝国出身の生粋のドイツ人か、ドイツ人と結婚したオランダ人の様な“半分ドイツ人”(ドイツ語からの直訳)か、どうかは問わなかった。
 
オランダ人はナチスの党員が、蘭印で第五列(スパイ)を組織すべく、国家主義者を募集することを恐れたのだ。その後女性、子供、ユダヤ人、ナチスドイツから逃げてきたドイツ人、全てを鉄条網の中に閉じ込めた。そして財産は没収された。
 
多くのドイツ婦人は蘭印の生活が長く、オランダ人とも良い関係を保っていたのであろう。よって当初は「なぜオランダ人によって抑留されるのだ」という驚きがあった。
 
さらに1941年12月8日、日本が英米に宣戦布告をすると、ドイツ人のうち男性は全て、英国領であったインドに移送されてしまう。日本軍による蘭印占領の際に、彼らを解放することを恐れたからだ。”ABCD包囲網”と言われる対日経済包囲陣のDはオランダ(=蘭印)で、日本への石油の輸出を制限していた。
 

<引き揚げの開始>
 
そんな蘭印を逃れて日本に来るドイツ婦女子を当時の新聞が報じている。先ずは朝日新聞1940年5月15日付けである。

「蘭領東インドから対独宣戦後の第一船南洋海運日蘭丸が14日午前8時、神戸に入港した。
スラバヤを出帆したのが5月4日、72名の船客中14名のドイツ人婦女子は、危機を寸前にして逃れた人々で、中には日本での再会を約してスラバヤの埠頭で別れたばかりの夫の身を案じ、悲壮な思いに沈んでいるK・ミツデンドルフ夫人(40)と2人の娘さんの痛ましい姿がある。」

と14名の婦女子が日本に来たが、彼女らはオランダによる抑留直前に脱出することが出来た最初の引き揚げ者である。
 
この日の朝日新聞は続けて、スラバヤ在住27年久保辰二氏の話として
「現在東蘭印にいるドイツ人は約1200,300くらいでしょう。しかもこのうち9割はナチス党員で、それだけに蘭印政府ではドイツ人には絶えず大きな恐怖を抱いていた。」とドイツ人の総数を1200名ないしは1300名位と述べている。
 
さらに7月16日の報道では
「ドイツ人の収容数3千数百、後日更に有力婦人200名も収容。近く全員スマトラの新収容所に移すことになっている」となっている。久保氏は1200名ほどと述べたが、他の資料も考慮すると、全土で3000人というのが、事実に近そうだ。これは同時期に日本に暮らしたドイツ人総数よりもかなり多い。
 
11月24日には
「蘭印引き揚げドイツ人45名を乗せた便船(南洋海運チェボリン丸-筆者)、23日神戸に入港。
一行中にはバタヴィア領事R.Wドレックスラー博士、H.シュルツェ副領事をはじめとする、バタヴィア領事館員15名が乗船している。」と外交官が引き揚げた。
 
彼らの帰国実現には日本も介在している。10月24日の朝日新聞の報道では
「独、蘭印総領事釈放 我が斡旋成功  ○○にて田中特派員。」の見出しが出る。(軍事機密からか地名は○○と伏されている。)
 
続く本文では経緯が説明されている。
「男はアチェ島、女はバタヴィア付近に収容されているが、ドイツ政府は日本にその釈放の斡旋を依頼してきたので、斉藤総領事は10月初旬、スイス総領事とともに蘭印当局にその釈放を交渉した。
 
その結果今日までスカブミで監禁同様の生活を送っていたバタヴィア駐在のテイマンウヂ夫妻は19日、スラバヤに送られ○○丸に乗船、日本を経て独に帰ることになった。」
 
このように小規模の引き揚げは、ドイツのオランダ侵攻時点から行われた。そして1940年に日本着いた彼らは、シベリア鉄道で無事祖国に戻ったはずである。
 

<引き揚げ交渉>
 
日本の外交文書にも記録が残されている。
ドイツと異なり日本は、オランダとはまだ交戦状態にはなく、スラバヤの桑折鉄次郎(こおりてつじろう)領事はドイツ人婦女子に関し、蘭印政府との交渉を持つことが可能であった。同時にスイス領事も仲介に入ったようだ。
 
1940年9月10日の桑折領事の松岡外務大臣宛報告によれば、
「スラバヤ在住婦女子は収容されたもの(貧困者及び公安に危険ありと認められたもの)を除き、一般に普通に生活を送っている模様。然るに最近当領より日本に向かったドイツ婦人が、日本において反蘭印宣伝をなせる事実等より、各方面に在留独婦人の取り締まり強化を要望する声が高まっている。
 
欧州戦争の長期化に伴い、生活費の困窮を惧れ、日本経由本国に帰国せんとする者、最近すこぶる増加せる趣きなり。」
とドイツ人婦女子がすべて抑留されたわけではない。日本に着いたドイツ人が抑留を悲惨に語るから、こちらの蘭印当局の批判が高まっていると報告した。
 
これは交渉した蘭印側の言い分と思われるが、どうもほぼ全婦女子が抑留されたというのが、本当の所の様だ。
 
さらには
「当領事館で引き揚げ婦女子に支給する金額は、ドイツに戻るには充分ではないので、日本のドイツ官憲においては、十分の旅費を持たざる者に日本到着後の援助を与える用意があるのか?至急回答を。」と外務省に問い合わせた。
 
これに対し外務省から問い合わせを受けた東京のドイツ大使館は、10月1日に口上書で勿論費用を持つ用意があることを答えた。
 
こうした経緯を受け、婦女子の抑留が1年を越えた1941年春以降、集団的日本への引き揚げが実現する。仲介に入る日本のドイツへの条件は、引き揚げにかかる費用はドイツが負担すること、そして速やかに日本から母国ドイツに帰国するということで、ドイツはもちろん条件を受け入れる。
 
第一部以上
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