旧軽井沢の少し外れた所を歩いていて、出会った洒落た建物。綺麗に修復されているが元は戦前の建物では、というのが私の見立てでその場で写真に収めた。2023年3月のことだ。

 

 

その後湘南地方のドイツ人を調べる中で、菅原通済という人物に出会った。彼は「フィクサー」として事業で儲けたり失敗したりしていた。そして1930年頃から鎌倉山を別荘地として売り出す。一時は軽井沢同様の人気を得た。彼はそのきっかけについて回想している。


今日、みなから呼ばれているか鎌倉山は、今の住宅地の事で、鵠沼にいたころ(昭和3年)ドイツ人(名を忘れたが、どうもマイスナーさんだと思う)と散歩して、はじめて景色のいいのが分かった。いわゆる灯台下暗しで、西洋人から教わった訳である。(「思い出の記」1953年)

 

その際にマイスナーは

「どうして日本の方は、低いところがお好きなのですか? 我々は、丘の上の高いところの方が見晴らしも良し、空気が良いので好きなのですが、、、」と言ったらしい。

このドイツ人、クルト・マイスナーは私が調査していた人物で、当時の日本のドイツ人の代表的人物の一人だ。

ただしこの鎌倉山の別荘地の経営はうまくいかなかった。

 

一方先の写真は軽井沢ブループラークに「旧菅原通済別荘」として登録されていたことが分かった。そこから菅原通済が繋がった。戦後の1957年の建築(軽井沢ウェッブより)であり、筆者の戦前の建物かという予想は外れた。菅原は鎌倉山の開発に”失敗”し、自分は軽井沢に別荘を建てたのであろうか?

 

次は御殿場の松本蒸治(法学者)の別荘を訪ねた時の話である。松本は鎌倉山に洋館を建てていた。

「一番列車に乗るためには、鎌倉を5時50分発の電車で立たねばならぬ」と菅原自身も鎌倉に住んでいることが分かる。

訪ねた菅原に松本は「みちみち軽井沢よりこの土地の方が良い。この真夏に汗をかかぬ、軽井沢は少し涼しすぎる。第一東京から三時間半だから便利だ」と述べたのに対し

「いちいち大賛成。私も軽井沢の家には15年間にたった2度しか行かぬ。一つ私も御殿場党になろうか」

(1949年8月16日)

⇒松本の意見を聞くにつれ、別荘地の好みは十人十色だと思う。しかし菅原も軽井沢のファンであったとはいいがたいようだ。15年に2度しか行かなかったという軽井沢の家は、仲の良くなかった父親の三笠の別荘であろう。

 

「軽井沢に着くなり、またまた軽井沢会館で、三船敏郎と、山口淑子の「霧笛」と小暮美千代の「紅扇」を見る。上田の時も2度目だし、ここのもこれで2度見ている」(『かき(旅)ずて)「霧笛」は1952年の作品である。この頃はそれでもよく軽井沢を訪問したか。

 

勝連の軽井沢会館の場所は、「軽井沢会館駐車場」 グーグルマップより

 

次の菅原の文章は軽井沢の別荘について語っている。

私が今、こうして執筆している別荘は軽井沢としては少々大き過ぎるし、めだつ家である。
こうした宣教師の開拓した土地は、ほとんどバンガロー式でよいので、また軽井沢の特色はそこにあるのだ。

 

別に申し開きをするわけではないが、この家はもと池田(宣政 )候爵が、鎌倉に建てられたもので、故あって引き取らねばならぬ事情があり、3,4年そのままにしておいたが、(中略)
止む無く日本館は、移築して常盤山文庫の陳列室の一部とし、西洋館は、この軽井沢に引っ張ってきたものである。(中略)だいたい大名屋敷というものは、ダダッぴろいだけで、実用には向かぬものである。

 

このように今も”めだつ”建物は、池田候爵の洋館の移築であった。すると元は戦前の建物という筆者の見立ては正しいのかもしれない。そして引き取った建物は元は鎌倉山にあったのであろうか?

 

こうした結びつきを求めて、軽井沢では古い建物を見るといつも写真に収めている。また現在は別荘は別の方の所有となっている。

 

余談であるが、先週旧軽井沢を訪問した際は、下の様な「景観育成住民協定区域」の緑色のプレートがいくつかの別荘の前に置かれていた。住民が自分らで景観の保全にあたっていることが実感できた。

 

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